教育福島0067号(1981年(S56)12月)-028page

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随想

 

ぶつかりあい

阿部孝貞

私が本校三年二組の担任となって早くも六か月たとうとしている。

 

私が本校三年二組の担任となって早くも六か月たとうとしている。

この間に私は、先輩の先生から多くのことを学びとるとともに、生徒の書く「生活の記録」から、教師のあるべき姿について学びとった。

私が初めて生徒たちの前に立った時、生徒たちの真剣な目が恐いほどに感じられた。そして、その日の「生活の記録」にはこう書いてあった。

「今度の担任の先生はだれだろうとみんなで話し合っていた。そしたら、若い新任のまだ卵の先生だった。どんな先生だろう。そのうちわかるだろうが心配だなあ」

ここには新米教師を担任として迎えた生徒の期待と不安が実によく表現されている。私はこの時、三十七名の生徒たちの期待を裏切るような教師になってはいけないと自分に言い聞かせたものである。

それから、この「生活の記録」による私と生徒たちとの心の交流、意見の交換が始まったのである。初めは、むしろ私の方がなかなか生徒の心の中に入りこめず困った。生徒たちは自分の悩みや教師に対する注文を書いてくるのにどうしたらよいかわからなかったのである。

ある時こんなことがあった。私はうっかり方言のまま生徒たちに話しかけた。突然爆笑が起こってとまどった。しかし、その日の生活の記録に「先生、あれでいいんですよ。私たちの前で気どる必要なんてなにもない。つい笑ってしまったけど、とても親しみを持ちました……」と書いてあり、ほっとすると同時に、生徒たちの前で私がどんな態度で接すればよいのか教えられる思いだった。「私が普段着の姿で接しなくて、どうして生徒たちが正直に心の内をさらけだしてくれようか」そう悟ったとき、急に胸のつかえがおりたような気がした。

だが六か月近くたった今でも、私はまだ生徒一人一人の気持ちを十分に理解することができないでいる。そのために、生徒たちと意見の対立がよくある。叱るにしても、頭から決めつけてしまって、相手の言い分を無視してしまうことがある。そんなときには、必ず「生活の記録」で反論してくる。生徒たちは私に対して面と向かって言えないことを書面で訴えるのだ。もちろん、生徒たちの主張が全て正しいとは言えない。時間をかげて教え、納得させなければならないこともある。しかし、真剣に本当の気持ちをぶっつけてくることは認めなければならない。彼らの生の気持ちを素直に受けとり、はげまし諭し、教え導いていくことが私に与えられた仕事なのだ。そう考えれるようになってきている。考えてみればこのことが、生徒理解であり生徒指導なのかもしれない。

思い起こせば、私が先生として教壇に立ってから、毎日毎日の生徒たちとの生活で普段に起こることが、私にとっては全て新発見であり、その連続であった。その中で生徒たちに教えられたことは「教育とは結局人間と人間とのぶつかり合いの中で行われるものである」ということであった。教える技術も経験も少ない新米教師の私には、「教育とは……」と大上段にふりかぶって言えないが、生徒たちとのぶつかり合いの中で得たこの実感はまちがいないことのように思える。まだまだ手探りの状態であるが、生徒たちの気持ちを大事にする教師になりたい。そして、この「生活の記録」を通して、もっと深く生徒たちを理解し、心の交流を図りながら、一人一人の成長を援助指導していきたいと考えている現在である。

 

(福島市立吾妻中学校教諭)

 

心をひらいて

心をひらいて

 

 

 


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