教育福島0067号(1981年(S56)12月)-032page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

随想

 

山崎 亨

「……」子供たちからは、「おはようございます」という声がもどってこない。

 

「おはよう」「……」子供たちからは、「おはようございます」という声がもどってこない。

能面のように無表情で、ただ頭を下げるだけのY君。目がとろんとして今にも眠り込んでしまいそうな感じのK君。「おはようございます」と発声はするが、正しい音声にはならず、のどに何か物が詰まっているような声にしか聞こえないMさん。こんな三人が、新任教師の私を待っていた。

あれもしよう、これもしよう、という焦りだけが残ったまま、一学期が終わってしまった。二学期に入り、子供たちは、徐々に「ぼくらの先生」として、私を受けとめてくれるようになった。私の気持ちがいく分かでも子供の心に入り込んでいったのか。Y君は、日がたつにつれ、「おはようございます」「さようなら」が、声らしい声には、なっていないが、帽子をきちんと取って、にこにこしながら言えるようになってきた。K君は、言語を多く使用する教科学習の場では、依然として眠そうな顔つきのままだが、体育、音楽、教室の整理、整とんなど、体を動かす場では、目を輝かせながら、自分でいろいろと工夫をし、楽しそうに活動するようになってくれた。Mさんはとっても気分屋で、いやだとなると一時間の授業中ずっとふくれたまま、まったく授業にならず終わってしまう。そんな彼女が、休み時間、一緒にドッジボールなどで力一杯遊べば、それまでのふくれ面は消え、次の授業ではリーダーシップを発揮し他の二人をぐんぐん引っぱってくれるようになった。こんな時、ようやく子供たちと一緒にわずかながらでも一歩前進ができたのではないかと思えてくる。

「障害を持つ児童・生徒は、能力の個人差が非常に大きい」と言われている。私のクラスも、その例にもれない。学習の面ばかりでなく、社会的適応能力についても、かなりの個人差がある。

学習内容をどう精選していったら、この子供たちに合ったものになるだろうか。授業はどう進めていったらよいのだろうか。 一人一人にあった教育とは、一体どうあるべきなのか、など新米教師の頭の中には四、六時中このようなことがうずまいている。

児童は、教師の指示がわからない。質問されているのか。指示されているのか、わからない。こんな時、授業はからまわりし、一歩も前進しない。また教師は、児童の声がわからない。健常児が自然に発する様々な声、休み時間の遊び声、授業中のボソボソという声、つぶやき、とんちんかんな答えをする声、こんな声を、聾児も盛んに発しているのだが、教師になかなか理解できにくい。ここがとてもつらい。教師ばかりでなく子供たちにとっても苦しいことである。正しく意が伝わらないということは、こんなにも苦しいものなのか、聞こえないということが、こんなにも重く子供たちにのしかかっているものなのか。

休み時間に、一緒にボールで遊ぶ。そこには、生き生きした子供の顔がある。目を輝かせ、無心に遊ぶ顔がある。体じゅうからエネルギーを発散さぜ、元気いっぱいに活動する子供たちには、大人には真似できない何かがある。

子供たちと、ドロまみれになって遊び、聞こえないハンディを共に悩み、わかる喜びを共に感じることのできる教師でありたいと思う。

 

(福島県立聾学校教諭)

 

よし!わかったぞ

よし!わかったぞ

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。