教育福島0072号(1982年(S57)07月)-007page

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カ気象局から年額一万ドルの提供を受け、四年間にわたり研究を続けた話は有名。昭和五十三年十一月勲二等瑞宝章受章。昨年、県外在住者知事表彰を受けた。白河市出身。明治四十年生。

 

関する分を合すると、震死者の総数は約七千人あったろうと推定されている。

 

の規模としては、それほどの大地震では々かったが、直下型地震であったから江戸の混乱ははなはだしく、今日でも安政二年十月二日夜に起こった直下型地震のものすごさは、恐怖をもって多くの市民から回想されている。この地震の震源地は、江戸の市中にあったといわれ、現在の地名で、江東区亀戸から墨田区亀有にわたるところにあったといわれ、その周辺に大きな被害を与えた。当時唄われた俚諺に「御江戸を始めて二十里四方(八○キロメートル四方)騒動、畑原一式、町中右を左へ乱がましく蔵や土塀も大破に致し」という騒ぎであった。地震は規模としてはさほど強烈ではなかったが、江戸の府中で起こった直下型地震であったから、さしも繁華な江戸市中では大被害を受け、家屋の倒壊を始めとして、火災が方々から起こり、地震特有の崩壊家屋が火元となって、大火災となっている。幸い、十月二日夜は、風力はいたって穏やかであったから、火消人足の消火作業もあって大火も広大な延焼を見るに至らなかった。しかしながら地震後の江戸町奉行所調査によれば、江戸市内奉行配下の変死人は、合計三千八百九十五人、つぶれた家は一万四千三百四十六軒あった。この外、武家(武士は町奉行配下に属していなかった)に関する分を合すると、震死者の総数は約七千人あったろうと推定されている。

ついで安政三年八月二十五日希に見る台風が東海道を経て江戸周辺を襲って大災害となった。「東京市史稿・変災篇」によれば「其惨害、実に乙卯(安政二年)ノ震災二倍スト称セラル」というほどの被害を出した。

私は今秋の九月一日の防災の日を期して、安政年間に起こった江戸の災害について、やや膨大な古記録を集大成して出版し、昨年秋、松平勇雄福島県知事から栄誉ある表彰を受けた記念としたいと思っている。また、私は白河市出身で、安積中学(旧制)の卒業者であり、郡山市史(全十一巻)の編集者の一員でもあるが、今後も郷里のことに何かと努力したいと考えている。

ていげん

 

 

 


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