教育福島0072号(1982年(S57)07月)-024page
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随想
ずいそうずいそうずいそう
ほんとの生き方
須貝啓二
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「先生、おかげさまで看護学校、卒業できました。ありがとうございました」三月十八日の夜、いつもは、静かな口調で話すY子の電話の声が、今夜はさわやかに弾んで聞こえた。「そうか、とうとうやったな。おめでとう、おめでとう」私の声も一段と高くなった。
二年前の四月、三年二組を受け持った生徒の中に、父を病で亡くし、母と二人で生活をしているY子がいた。Y子は、三人兄弟の末っ子であったが、母に甘えた生活は、かけらも見られず将来は働きながら看護婦になるんだと心に決めていた。母は、中卒で社会に送り出すことを不びんに思い、せめてあと三年間苦しくとも親の下で高校生活をさせてから希望を遂げさせてやっても遅くはないと考えて、Y子と意見が対立していた。しかし、Y子の気持ちは変わらなかった。私は再三、母とY子の話し合いの中に入った。就職相談日が迫って来た数日前に、中学を卒業して東京に就職している兄が、休暇をとって帰って来た。家族全員の納得が欲しかったY子は、一日も早く希望を達成させたいと、自分の気持ちを兄に語り続けた。東京に戻らなければならない日の明け方になって兄は「途中でくじけるなよ」のことばを残してバスに乗った。
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Y子は、福島市内の医院に住み込みで勤め、そこから福島準看護婦高等専修学校に通学した。仕事と勉強の努力が、二年間休むことなく続いたQ高校に進学した同級生たちの、さまざまな姿を見聞きしながらも、弱音を吐かないY子の生活は、幾度かの手紙によって知り得ることができた。
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そして、吉報の電話がかかって来たのである。
三月十五日には、準看護婦合格の知らぜ、早速、手紙を書いた。「あなたのすばらしい生き方を、きっと、後輩たちに話して聞かせます」と。
折り返し返事が来た。
「先生、お便りありがとうございました。先生が私の生活を、後輩たちに話してくださるというお気持ち、とてもうれしく思います。でも私は、後輩たちに、お話をしてもらえるようなことは、何もしていません。私だけが、学校と仕事との両立の中でがんばり、試験に合格したのではありません。沢山の人たちが、同じように苦労をしながら、資格をとりました。
私は、進路を決めるとき、みんなに反対されても、やっぱり、自分の気持ちは押さえきれませんでした。高校に進学して、もっと勉強したい、という気持ちもありました。早く、母を楽にさせてやりたい、という気持ちもありました。それよりも、一つの目的をもった生活を、若いうちにやりたい、自分の可能性を、若いうちに確かめてみたい、という気持ちが強くありました。
あの時先生が、私の気持ちを本当に理解してくれたから、自分の気持ちを打ち明けられたんです。
でも、これで本当に良かった。資格を取った今、本当にこの喜びで一杯です……。」
手紙の中には自分の生きようとする道を、どんな困難にも負けずにがんばりとおして来たという気持ちがあふれていた。更に、上級の資格試験を目標に、これからのきつい生活にも、きっと耐えてみせるという新たな決意が、−そして、老いた母を自分の下に呼び、一緒に暮らすことを楽しみにしていることがつづられていた。
Y子の生き方は、実社会の中では、ほんの小さな生き方かも知れない。しかし、十五歳の教え子を社会に送り出した教員にとって、このことは誠に大きな、すばらしい人生の生き方であると思った。
自由意識のないまま進学し中途で退学する高校生が多い。五十六年度の県立高校の中途退学者は、八百九十九人に上り過去最高だといい、学級数にすると約二十クラスが、消滅した勘定になるという。
Y子に約束したように、進路の選択が迫られている生徒たちのために、いっかこの生き方を、話してやる機会をもちたいと思っている。
(岩代町立小浜中学校教諭)
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