教育福島0072号(1982年(S57)07月)-025page

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随想

 

ずいそうずいそうずいそう

 

郷土の文化を……。

 

江花一男

 

会津の地に生まれ、生活すること三十余年になる。

 

会津の地に生まれ、生活すること三十余年になる。

先日、同じ職場の先生と遠足の下見学という目的で、会津盆地の一部ではあるが、約一日がかりで史跡を見てまわる機会を得ることができた。

山にかこまれた会津の地、ほこり得る文化の伝統がたくさんあることを改めて教えられた。午前九時、喜多方高校を出発、まずは、今年百年記念の行事が予定されている弾正ヶ原(塩川町上江)を訪ねてみた。

この地は明治十五年福島県令となった三島通庸が、当時福島県会に大きな勢力をもっていた自由党と鋭く対立するなか、一方では若松を起点とした会津三方道路の建設を計画し、この工事のために十五歳以上六十歳以下の男女すべてに、江戸時代よりもきびしい夫賦を課したことから起こった“喜多方事件”の発祥の地となったところである。現在は昨年(昭和五十六年)四月末建てられた記念碑があるだけであるが、当時の農民のすさまじい活力を見せつけてくれる場所でもある。

その場をあとにして、塩川街道を東に進み「会津の高野山」といわれる八、葉寺(河東町冬木沢)をまわり、勝常寺(河沼郡湯川村)を参拝する。この寺は会津若松の市街から北西約二・五キロのところにあり、以前は京都御室の仁和寺の末であったことが寺の古事録に散見されるそうであるが、明治以降は、その草創は八百七年(大同二)又は、八百十年(弘仁元)、徳一上人(一説では藤原仲磨呂の子)の開基と伝えられ、会津仏教の歴史の古さと活発な宗教活動を、教えてくれる寺の一つでもある。

創建時代の建物は今はなく、金堂にあたる薬師堂(重要文化財)の建立は明らかではないが室町初期ごろと推定されているという。

次に、会津坂下町を訪れ最初に見学したのは「立木観音」で、有名な恵隆寺である。この観音堂は千六百十五年(元和元)に再興された純正な和様の古建築といわれ、この堂の中に木彫りの千手観音像(国指定重要文化財)がある。この像はその名のとおり地上にはえたケヤキの大木に弘法大師が夢のお告げによって彫ったとされる堂々たるもので、わが国の千手観音中最大、鎌倉初期の作と推定されている。

私たちは会津仏教の歴史のすばらしさを語りつつ、北へと進み、東北第二の大古墳であることが確認された亀ケ森古墳(会津坂下町青津)を見ることにした。この古墳は前方後円墳で、全長百二十七メートル、後円部の基底より墳頂までの高さは十メートル余の大規模なものである。

喜多方市にもどり「長床」で有名な熊野神社(喜多方市慶徳町新宮)を参詣することにした。この神社は紀州の熊野神社を遷したもので、会津でも指折りの古社であり、千五十五年(藤原時代)源義家が建立したと伝えられているものである。拝殿は、熊野神社長床とよばれ、茅ぶきで正面二十五メートル、奥行十一メートルの一重寄棟造りで、太い円柱が五列に並んでおり、四方が吹き放しになっている。昔、修験道独特の行事やお祈りをする場であったようである。

次に、同市上三宮町の願成寺を訪ねた。この寺も古く、開基は千二百二十七年(嘉禄三)、浄土四流のひとつ多念義派の元祖隆寛のものといわれている。大仏堂の阿弥陀如来像(重要文化財)は高さ二・四一メートルもあり、千体仏をつけた舟形光背を背に金色に輝いている。

以上、私たちがその日みて歩いた所であるが、その外この会津の地には、各地にすばらしい伝統的な文化財が数多くあり、「会津三十三観音巡り」など、毎年さかんに行われている。

特に注目されるのは、会津若松市にある大塚山古墳である。全長九十メートルの前方後円墳で昭和三十九年からの本格的調査の結果、東北地方では、それまでに出土したことのない数々の副葬品が発堀されて、全国の注目をあつめた古墳である。

このように、自分たちの住んでいる町や村にすばらしい伝統文化が数多くあることを思うとき、子供たちに、この恵まれた会津の史跡をみずからの足でたずね、その文化財のひとつにふれて、その感激を身をもって味わってほしいと願うものである。

(福島県立喜多方高等学校教諭)

 

 

 


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