教育福島0073号(1982年(S57)08月)-007page

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ていげん

 

温かく抱擁してくれる本当の「ふるさと」になるだろうか。

 

温かく抱擁してくれる本当の「ふるさと」になるだろうか。

東京のような大都市になると、そこでの人間は匿名性によってかなり自由に振舞える気易さがある。つまり、「何処の誰兵衛」かを知られずに行動しうるし、近所との煩わらしい付き合いからも解放される。それだけ他人には干渉もしないのだが、それは裏返せば、「他人がどうなっても知ったことではない」といった意味での非人間的な態度が支配的だということである。東京生れの東京育ち、いわゆる東京っ子はこうした生活態度や意識をもっている場合が多い。かれらにとって、「ふるさと」はなくとも特に気にならないのである。

ところで、七月のお盆、また、年末年始に帰省客のために列車増発、航空会社の飛行便の増便までして、「民族の大移動」といわれるあの帰省客をさばく姿は、私はおそらく世界に類例をみない現象ではないかと思う。このことは、ふるさとのもつ緑や非打算的・家族的人間関係が、いかに東京の生活に欠落しているかを物語っているとみてよい。ともあれ帰るべき「ふるさと」をもつ人びとは幸いというべきであろう。ただ、東京のダイナミックな生活体系のなかに、どっぶりつかってしまった地方出身の東京在住者は、「田舎に三日もいると退屈でしょうがない」とこぼす。そぞろ(望郷に非ずして)望京の念に駆られるわけである。人間とははなはだ身勝手なものだと思うが、私自身すでに通算すれば四十年近く東京に住んでいるので、帰郷していささか時間をもて余し気味になる。しかしやはり、唱歌「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」の回想にひたることが多い。帰るべき「ふるさと」をもっている心の安らぎがある。したがって、「東京ふるさと」論にはなじめないのである。

 

 

 


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