教育福島0073号(1982年(S57)08月)-025page
随想
青い鼻汁のT君
橋本恵子
今日もまた、バスを降りた十一名の園児の中に、青い鼻汁を口までたらしよだれはもう園服をぬらし、ズボンははずれて、すそを靴で踏んでいる男の子がいる。
当番になりたいのに順番がこないと言っては、悲しそうに泣く。
「先生、さわやかな風だね」
「あの人美人だな」ビールの看板を見てはこんな言葉を発して、私をハッとさせる。仲間はこう言う。
「どうしてT君は赤ちゃんなのに幼稚園にくるの?」身長九十七センチメートルのT君も、やはり満五歳を過ぎた年長組の年令に達している幼児なのである。
つい先日、私は父の目の手術のため病院を訪れた。父の前に二人の子供の手術が行われた。一見なんでもなさそうなこの女の子が、タンカに乗せられて、
「お母さん、お母さん」と泣き声をあげながらエレベーターの中に消えた時、母と二人で涙をぬぐった。私も同年令の子を持つ親である。そして、T君もまた、健康な人間の一人なのであると、
健康であると、つい健康であることのありがたさを忘れがちである。保育も年を重ねるにつれ、慣れでその日を送ってしまい、なにか刺激がないと、マンネリ化した保育内容で、その日を送ってしまうことを反省する。
「ひざをついた保育」という言葉にあこがれた若い日々のことなど、すっかり忘れてしまったのではないかと反省する。子供を椅子に座らせ、自分が床にひざをつくと話しやすい体型になる…。それがいつの間にか、子供と逆の視線で毎日の保育を進めていることに気づく。
ひざをつけば、子供の目の高さと同じ視界で物を見ることができる。
ひざをつけば、子供の心の中から同じ視界に接することができる。
十年前も十年後も心の中は変わっていない。
「絵がもう少し上手に描ければ良かつたなあ」
「ピアノをもっとポンポン弾けたら良かったなあ」
保育という仕事の中身は実技がもの子供の心と目でをいう分野である。短大を出たばかりで、新設の園で、先生は自分一人だけなのである。技術不足に悩みながら心と心のぶっつけ合いの毎日であった。あの時の子も、今は高校生となって、ときに我が家に足を運んでくれる。真の保育は絵が上手に描けることではない。ピアノが上手に弾けることではない。心と心をぶっつけ合って心を育てることではないかと思われる。
現代は、コンピューター時代を迎え私たちの生活も、ボタン一つで、頭や体を使わずに済むことが多くなってきた。何年か先、むずかしい計算の教育など必要なくなるのではないかと思うと、教育という立場に立っている自分の身が、教育の内容の変化にせまられるのは、必至と思われる。
私たちに要求されるもの、いつまでたっても変わらぬ内容、それは心と体の健康な子供を育てることであろう。
今日もまた、
「鼻汁をかむんだよ」
「またでたね」
「どうしてT君のズボンは下がっちゃうのかな」
「ゆるいんでしょ」
一人前の返事をしながら、ズボンを上げてもらうこの子らと共に心と心のかよった保育の道をめざしてがんばっていきたいと思う。
(船引町立堀越幼稚園教諭)
子どもの心と目で