教育福島0073号(1982年(S57)08月)-029page

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随想

 

凡人んおばんの一筆啓上

 

箱崎典子

 

箱崎典子

 

随想原稿依頼?ン、なんだこりや一。畏れ多いことながらこの一言が実感。改めて我が仕事を見つめ直す。学校司書として十三年目、齢は増えれどその中身は?というとなんのことはない。凡人おねえから凡人おばんに変わっただけのこと。随想のズの字を書く資格もないのです。といってみても…。

何年か前のある日、カウンターの前で、早弁後の満足感から、極楽トンボのごとくボォーツと立っていた時のこと。日頃読書量の多いある二年生が、突然へんてこりんな単語を聞きにきた。

「はししってなんのことですか」その声が大きかったので、離れた所で勉強していた生徒が顔を上げて眼鏡の奥からジィーッと私を見つめている。まるであの司書さん答えられるのかな、なんてイヤーな目つき。その耳慣れぬ言葉、どこかで聞いたことがあると思いつつもとっさには思い出せない。そこで「なに、アッチッチ?なんだろうね」と茶化す。お嬢たち笑う。私も笑う。が、こちらの笑いは顔で笑って心で…の方。そのすきに我が軽いオツムへ必死に圧力をかける。「あああそれは麻薬のことかもしれないよ」答えながら思い出した。たしかにハッシーシという麻薬があったっけ。彼女は「フーソ、それはどんな成分なんですか?」と追い打ち質問。「そこまでは知らないよ、調べてみんさい」それから一緒に館内の植物図鑑や百科事典などをめくるが、ハッシーシという項目はない。悪戦苦闘の末、はっと気づく。麻科を見れば良いのだ。大麻ではないか。かくして一件落着。ジィーッの生徒にニィーッと笑いかける。大人気ないな、全く。レファレンスのむづかしさを痛感した一コマであった。

ときとして生徒たちはいろいろな分野の質問を持ってくるが、そのつど即答できたりできなかったり。幸いに即答できることでも解答を与えてしまわずに、館内の資料を利用して調べさせるため、適した本を指定する。それが学図のレファレンス・サービスではないかと思う。図書館学の大家、ラソガナタンは、司書にとって図書館は万華鏡のようなものである。それをフルに回転してすべての面を観察できるようし、利用者の関心をその面に導けるよらな技術を持て、とおっしゃるが、なかなかどうして、凡人おばんには終生できっこないのであります。しかし、一人でも多くの生徒に、特に成長期である高校時代に一冊でも多くの本を読ませたいと思う。

いまの高校生は本を読まない、といわれてから久しい。溢れんばかりの出版物に対して、なにを読んで良いかわからない、という読書調査解答があった。と同時に、進学校ではその暇もないよらである。現代の受験という海の中で小舟たちは、ひとつの島へ向かって必死に漕いでいるのかも。果たしてその島は大きなものなのかどうか−。

いっかラジオで、女子大生へのインタビュー番組を聞いた。大学へ入った目的は?の質問に彼女たちは(なんとなく。みんながいくから。就職にはまだ早い。遊べるから。親の束縛から離れられるから)また、どんな遊びを?には(B・Fとディスコで踊りあかすいろいろと社会勉強よ)じつにあっけらかんと答えていた。五十人中四十五人までがこういう答えだったとか。それを聞いてふと思う。親はなんのために学資を送っているのかなと。

すべての若者が、とはいわないけれど、その大半が高校でも大学でも、社会や家庭に入ったらなおのこと、本から離れるとしたら、精神的にひ弱な、うるおいのない人間になってしまわないだろうか。人ってそれがどんな間柄であろうと、心から理解しあえるものでもなさそうだし、誰もが心の奥底に孤猿的なものを秘めながら生きていくようである。そうした人生の中で、若い時代に多くの本を読んだ人こそ、困難への立ち向かい方、ものの考え方など無意識のうちに読書によって培われたなにかが影響していないだろうか。ちょっとオーバーかな、この考え方は。でも、成長期に受けた本の影響って意外と大きいものだと思いますけど…。かくいう私もその時期にはせっせと遊びほうけていたのでありまして、なんの因果か、その本扱いを食の糧としている今、自分のことはさておいて、我が嬢たちに読書、ドクショと騒いでいるのであります。

(福島県立磐城女子高等学校司書)

 

 

 


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