教育福島0073号(1982年(S57)08月)-028page

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随想

 

日記抄

 

飯豊睦雄

 

飯豊睦雄

 

×月×日 電話が鳴った。本から目を離して時計を見ると十一時をまわっている。生徒の事故か、白河に残してきた家族からの緊急連絡か。深夜の電話は一瞬の緊張を強いる。受話器をとると一杯きこしめした町の文化人Sさんの声が飛びこんできた。ほどなく現れて、泡を飛ばしながら語った話の大要はこうである。社会が動く時、大なり小なり若者たちの犠牲的行為がそこにあった。明治維新がそうだ。先頃の大戦にもいたましい犠牲があった。そして、日本は近代国家に脱皮し、平和国家として再生した。今の高校生はどうだ。与えられるのを当然のこととし、その逆はおよそ念頭にない。昔は家のために親も子もお互いに助け合った。今は子供のために親が一方的に犠牲になっている。平和の意味がどこにある、というのである。話の合間から察するに、X校卒の一人息子が二浪目に突入のやむなきに至ったらしい。犠牲の内容がゆれているのはご愛敬である。コップ酒をつきあいながら、来春の受験にはご相談にあずかる旨約束してお帰り願ったのは午前二時であった。

眼が冴えて眠れぬ頭を「犠牲」が突き刺している。太平が弛緩と怠惰を招来しつつある今、教え子たちはどう生きているだろうか。N、0、Sの顔がよぎる。彼等は使命感とどう向きあっているだろうか。いや、私自身はどうだろう。自己不在の言葉をまき散らす教師ではないと、果たして言いきれるか。リバイバル的発想にとらわれてはいないか…。今夜もまたやや嗜虐的な自己検索を余儀なくさせられる。孤りの夜の、もう一人の声はえてしてこうだ。リバイバル、リバイバル、明日のために眠る。

×月×日白河の自宅での朝。玄関先で訪う声がする。T大博士課程に学ぶ0である。「できました」という。彼が目くばせすると、新妻R子さんが白い包みを大事そうに抱いて近よる。涼しいつぶらな瞳がのぞいている。

ほぼ一年前、彼の依頼でご両親より一足前に鑑定したのが、一杯飲み屋で知りあった(彼の言)というこのR子さんである。あの時、私の盃の空き具合よりもOのそれにちらちら目をやりながら、彼の煙草の灰にも心を配っていた。院生にありがちなアルバイトをやめてもらったという。学歴等は彼のプロポーズ後に知ったという。彼女はK医大の看護婦さんである。私は人間を真心で決める。孔子のいう忠恕である。

そういえば進学先を決める時にもこんなことがあった。その年三月末の大雨の夜、東京から赤電話で、T大、国公立のF医大、J医大のどれにしたらよいか。手続きは明日が締め切りだという。十円玉が数枚しかないとせきこんでいる。当方あわてながら赤電話にも番号があるはずとひらめいたのは上できであった。小一時間考えて受話器を取り上げT大と宣告したのは、彼の化学の天分を信じてのことだった。

今、農芸化学に進んで微生物と取り組んでいる。夕刻ビール瓶を林立させて帰る三人の後姿に、多幸を祈りつつ次代をしっかり引き継げと命じた。×月×日雨がやんだ。アパートは六畳二間である。奥には本を積み上げ、手前の部屋を茶の間にしている。五十台という年齢は重い。わが生の行く行く休するを感ずるこの頃である。夜はふけて四囲のどこからか、汝はたして何を為しえたるやと松籟にも似た声がただす。帝郷は期し難く、去留に心を委ねる大悟は望むべくもない小人の耳に、終の時は近し、その覚悟やいかにと続いて迫る。奥の部屋でKが寝返りをうった。G大三年の彼は学園祭の合間を縫って一夜の歓を共にすべく訪ねて来たのである。いうところのカラオケを、肩を組んで二、三経巡ってきて安らかな寝息をたてている。

思えば教師生活三十年、彼等の水先案内人として苦しみもがき遮二無二生きてきた。過ぎてみれば三十年も刹那というべく、わずかに残るのはただ感慨である。しかもその大半はじくじたる悔恨にとどまる。狭量と独善から脱するにはやはり年輪を刻む以外にはなかったようである。創演の凡庸に往生の目途はない。Kの寝息が聞こえる。何人にも、内省が愉快をもたらすことはあるまいと悟る。いささか化に乗じて尽きるに帰し、時しばらくはわれにかすあるを願って、愚かな坊津を重ねつつ、一隅を照らさんのみ。

(福島県立富岡高等学校教頭)

 

 

 


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