教育福島0074号(1982年(S57)09月)-022page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

随想

 

ずいそうずいそうずいそう

 

書くことのいろは

 

西野正治

 

西野正治

 

普通にいえば編集長かな、その御仁から「文部省教育モニターである先生に、そのうち随想を書いてもらうことになっているから」、とかなんとかいわれ、悪い冗談はやめてくれ、書いたこともないし、なんせ書くことがないなどといって、今思えば断固拒絶しておけばとくやまれるのだが……。

囲碁の話でもいいんじゃないの、で多少色気を出したということもある。とっておきの話はないけれど、囲碁のことなら覚えたてのころの碁敵のことやら、棚からボタモチの譬よろしく、ある日突然日本棋院お墨付きの四段の免許状をたまわったいきさつやら、結構書くことがありそうだった。それにしてもあり得ないことと高を括っていた。ところがである。編集長は並の人ではなかった。個人的攻略なら例のヌラリクラリと攻撃をかわし、相手があきらめてそのうちそんな話があったっけ、の戦術をとる自信はあったのだが、正式ルートの依頼で攻めてきたのだ。受付に始まり校長までペタペタとハンコが七つも八つもならんでいる。並のバッターではとうてい手も足も出ない剛速球である。もはや観念ぜざるを得ない。

一世一代の歴史に残る名随筆をものにしようと決意も固くだが、これが素人の浅はかさというもの。見たこと感じたことを素直に書くんですよ、という作文指導の基本が全くおろそかになる。ただひたすら言葉を弄てあそび、後世に残る一行をデッチあげようと辞書と首っぴきのていたらく。

題して寸描あるいは寸秒とし、打ち込め青春!を合言葉に全国の高校生百数十人を一堂に集めて行われた頭脳の甲子園、全国高校囲碁選手権大会の熱戦の模様を、ベートーベンの田園交響曲にのせて書き上げ、我ながらみごとなできばえと悦に入り、自信たっぷり家族に披露したものだ。

ところがである。その反響は、一読ではない一べつをあたえるや、読みたくない文だときた。最後までちゃんと読んでみろ、に読まなくても見ただけでわかる、という。漢字漢語が多過ぎる、文部省広報誌と同じだ、とのありがたい非難。なるほど、紙面が黒々としているよりパラパラと白っぽい感じの方が、読みやすい経験は日常的にある。内容だよ、の自信はいささかも揺らぐものではなかった。ところがその自信に満ちた内容だが、独り善がりで、若者がよく書くような調子だというのである。

碁を知っている人なら読む気にもなるだろうが、なにせ碁はマイナーだからな、と娘まで鋭い。結局何が書きたかったの?にいたっては自負心も今や萎える一方である。

「もう一つの甲子園」にしぼって書けとか、トーフという我家の飼犬のことを書いたらとか、最近ちょっと凝っているのだが、福島盆地を東に流れ阿武隈川に注ぐ小河川の川筋の話を書いてみたらなどと、丸一日かけた自信作を、暗にボツにせよという。四十五分の持ち時間のなかで選手は最善着手を求め吟味するのだか、敵は対局相手ではなく実は手合時計の針だった、という苦心作を簡単に反古にできるわけがない。星新一の文章はスゴイよね、にはアタリマエだろう、とむしろ心おだやかである。しかし、である。いかにも学校の先生が書くようなことを書いている、という全く反論しようもないことまでいわれると、物事にはすべて限度があるというものである。

翌朝。題をみただけで読む気になるのとならないのがある、という我家の批評家どもの言を思い出し、かの文春の随想欄を繰ってみた。顔かきの自己弁護・特攻余話・プロレス休筆宣言・長寿のヒケツは手品と競輪等々。納得である。みただけで内容がわかるという仕組みである。しかし待てよ、「羊頭狗肉」ということもあろう。読んでみた。なんのことはない、題は内容を表す見出しなのだ。何を書いたかによって、題か自動的にきまる。いや話しは逆で題とは主題(テーマ)のことだから、始めに題ありき、なのかもしれない。

結局、何が書きたかったの? 昨夜の批評家たちは、物を書くことのイロハを問うたに過ぎないのだと原点にもどった時、編集長の、碁の話でもいいんじゃないの、を思い出した。それにしても、この駄文の題を何としよう。

(文部省教育モニター・福島県立福島高等学校教諭)

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。