教育福島0078号(1983年(S58)01月)-032page

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随想

 

ずいそうずいそうずいそう

 

人として教師として

 

本田勇三

 

本田勇三

 

三十五名の子供たちの視線を一斉に受けて、何か緊張を伴った喜びを感じた。これから精一杯がんばっていこう!という気持ちが、心の底から湧いてきた。

 

この文は、新採用の女の先生が週案第一日めの四月四日の反省欄に記述された文章である。

一クラス三、四十名の児童、生徒をまかされ、大きな期待と不安を持ってスタートしたことは、教師である誰もが経験したことである。

子供の見る目は、するどいものである。特に担任が変わったときは、目をかがやかせて教師の一挙手、一投足を見つめていく。教師のはぐくむ力の入れ方によって、子供たちはどうにでも変わっていく。

私が新採の時「あなたは大学を出てきたのだ。先生方から多くの期待を持たれている。これから多くの仕事が出たら、いつでも相談にのってやるからな」と先輩からやさしい言葉をかけられたのを今でも覚えている。そして五月から私にまわってきたのは、四年生以上の希望者に対する放課後のそろばん指導である。

加減法は、わかるとしても、乗除法の正式な珠の置き方は、よくわからなかった。教科書を読み、自分でやってみた。自信のない私の不安は大きかった。そこで早速先輩の先生に相談し、手ほどきをしてもらった。しかし、児童に教えるには豊富な知識と技術が必要である。指導書を見ながらの猛練習が私の毎日となった。

やがて最初の練習日、子供からの質問第一声は「先生、何級持っているのですか」であった。私は期待にあふれた素直なこの質問にとまどった。「先生は小さい頃ちょっとやっただけで級なんて持っていないよ。でも皆に負けないようがんばるよ」と平気をよそおって答えたのを覚えている。そして子供との四つに組んだ練習の日々が続いた。勿論、子供の上達は目を見はるものがあった。

この体験を通して私はいくつかのことを学んだ。

「子供の持っている可能性は、目的を持たせ、意欲づけをしてやることによって、無限に伸びる」ということや「教師が勉強し伸びることは、子供も伸びることである。自分の勉強のためには時間を惜しんではいけない」「研究授業はもとより、小さな校務でも、これをおっくうがらずにひき受け、体当たりで努力すればできないことはない。小さな継続はやがて大きな力となる」などである。

こうして教師一年目は、苦しい、しかも充実した楽しい想いで満たされていった。

再び新採の先生の記録を見ると、

 

「静かにして下さい」という言葉を一日のうちに何回言ったことか。授業をしょうと思っても授業にならない。大きな声を出し続けたため、声がかれて出なくなってしまった。子供たちはそんなこと我関せず相変わらず騒ぎ続ける。私が若いということで甘えてくるためか、子供たちの扱い方を知らない未熟さのためか、なかなか授業らしい授業ができない。

−以下略−

 

このように、子供たちとの最初の経験。あせりといら立ち、期待と失望、反省と再出発の連続。このひたむきな努力が、張りのある楽しい学級を作り一人一人の児童に質の高い生きた学力を身につけさせることを可能にする。

 

若い教師でも、経験の豊富な教師でも、子供の目からすると同じ先生である。子供と親の期待にこたえられる教師になるには、仕事に対する謙虚さと研究心、そして継続する努力と情熱が必要だと思う。

 

今、教師に求められていることはあまりにも多い。豊かな識見、親や子供の立場に立てる幅広い温かな人柄、そしてなによりも大切な健康と明るさを持つことではないだろうか。

真の教育とは何か、追い求めても終わりのないこの道を、一歩一歩、地味に積みあげていきたいものである。

 

(福島市立湯野小学校教諭)

 

 

 


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