教育福島0078号(1983年(S58)01月)-034page
随想
ずいそうずいそうずいそう
絆
渡辺正吉
高校受験期が近づくと、きまって、十七年前の教え子の記憶がよみがえってくる。
その子の名はA子。私はA子の話しをしようと思う。
× × × ×
A子は、友人十数名と県立H高校を受験。わが校からの同時受験者の中では、上位から二番目くらいの「力」を有しており、まじめで家庭学習にはげみ、学校の行き帰りにも英単語を暗調するなど、合格を確信していた。
だが、H高校の合格者には、A子の名前はなかった。落ちるはずがないと思っていた子が落ちたていたのだ。
さて、どのような事後指導をとるべきか。
本人、保護者、私と失敗のケースは考えていなかったからだ。学年会が開かれ対策の確認がなされる。とりあえず、不合格のでたクラスの担任は家庭訪問をすることになる。
重い心に鞭うっての訪問である。母親が応待にでる。A子はふとんをかぶってでてこない。母親の説得に、ようやく現われたA子が精一杯の抗議をする。「先生、私は落ちるはずはない」「高校へ行って、もう一度調べてきておくれ」「高校はまちがっている」と一途な思いは痛いほどわかる。私も、そう信じたい。だが、発表は、あくまでも事実である。事実は事実としてうけとめなくてはならない。大切なのは今後の問題だ。
「人間、一、二度の失敗でくじけてはいけない」「失敗は成功のもと」ということもある。「合格したことで人生がすべてうまくいくものではない」このような私の言葉も、悲嘆と動揺のるつぼ坩堝に落ちこんでいる彼女の耳には、むなしい響としか聞こえなかったであろう。現実を素直に認める心ができるまで「時」が要る。苦悩煩悶はやがて諦観を生み、冷静さをとり戻せば、内省もし、再出発の意欲も湧いてくるであろう。「時」をかけて立ち直らせねばなるまい。
四月にはいって、彼女の身の振り方がきまった。洋裁学院に通うことになった。彼女が、母親と連れれだって私の家を訪れてくれたのは、入院式を終えての帰りだった。「心配かけてすみませんでした」と、母親はいうが「がんばるんだよ」と、私が言葉をかけても、頑なに閉じた彼女の心は開かなかった。「先生に、二年間担任してもらって、私は、先生のいうとおり勉強した。死ぬほどやれ、といら言葉も守った。でも、私は失敗した。もう、先生のいうことなんかききません」勧めたみかんを私に投げつけた。「先生すみません」母親は、何度も恐縮して帰っていった。
一年担任となった私は、三年生が模擬テストを行うたびに、問題用紙を買って彼女に送り続けた。通信教育の方式で指導しようとした。だが、返事は返ってこなかった。高校再受験の勧めも、一級下の人と一緒というこだわりが、決意を鈍らせているようだった。
冬休みにはいって、日直勤務にあたっていた私が、石炭を持って職員室にもどろうとした時、「先生」「先生」と、聞き覚えのある声に呼びとめられた。A子が立っていたのだ。その声も中学時代の、はずんだ声にもどっていた。
「先生、すみませんでした。私はまた高校を受験します。今度は、S高校を受験します」
彼女が、見事合格したことはいうまでもない。一学期の中ごろ届いた手紙に、「友人もたくさんできて、一級下の人と一緒などという、こだわりはありません。毎日、毎日が楽しい生活です」彼女にとって、一年の煩悶と苦悩の後に得た春だった。
教師である私にA子は、多くのものを強烈に教えてくれた。教壇に立たれた若き先生方も「A子」に会うことがあると思う。これを思い、長い話しとなってしまいました。
× × × ×
当時の彼女の同級生で、毎年、年賀状をくれるのはA子だけである。「今一男一女の母です。しあわせな家庭生活を送っています。これもみんな先生のおかげです」と……。
(三春町 船引町 学校協同組合立要田中学校教諭)