教育福島0078号(1983年(S58)01月)-035page
随想
今は昔
鈴木忠良
押してだめなら引いてみな手に負えない悪名高いクラスを担当したことがある。第一、クラスとしての形態をなしていない、何をしてもびりである。その上、常に騒然としているので、授業に出た先生から、しょっちゅう苦情を申し込まれる。
先輩の助言を得て、おどしたりすかしたり、手を変え品を変えやってみたが、さして効果が表われない。
ある日、中心人物と目していた四、五名に、「○○君、君の兄さんは××君だったな、元気かい」といった調子で話しかけ、兄や姉の近況をうなずぎながら聞いてやった。さて翌日、代表人物君の良いところだけを並べた手紙を、それぞれの兄、姉宛にして持たぜて帰してみた。効果てきめん、一週間ほどで、悪童連中ぴたりと鳴りをひそめてしまった。
間接的賞賛法とか、異性代言法(私の造語へ教師・生徒を問わず、あこがれの的である異性の口をかりて、代わって話してもらう方法)とか、たくさんの方法があることを知ったのは、ずっと後になってからのことである。
遠い道
週半分は遅刻をする生徒がいた。自転車のタイヤ入手困難た時代の話である。ひどくしかってみたが効果がない。当人は、三.羅も弁解しない。ただしかられている。級友の一人が、「先生、あれの家、うんと遠いんだぞい」ということばに、耳を傾ける余裕もない。それでも数日後、行ってみることにした。その子と同方向の友人が、一人減り、二人減りして、やがてその子と二人きりになってしまった。遠いことが、いかにも自分の罪であるかのように、恐縮しきっている子と、話の種もつき黙々と歩いた。遠かった。家は隣村との境の山すそにあった。
数年後`この生徒と偶然会う機会に恵まれ、「中学時代、先生と歩いた二時間が、いちばんの思い出です」と言われたときほど、困惑したことはない。
この遠い道は、教師という職業への厳しい自覚と、ここまで来た以上、もう引き返せないのだぞと、己にしかと言いきかせる不退転のことばを、暗示しているかのようであった。
過猶不及
秋から冬にかけて、わが家の庭に小鳥がたくさん来る。おなが、かけす、むくどり、ほおじろなどは、敏感で用心深く、容易に人に慣れない。山ばとは、意外に神経が太く貧欲で、豆を食べ過ぎて動くのがおっくうなのか、孫達が近寄っても飛び立たないことがある。
早朝、妻とふたりで、ガラス越しに小鳥を観察している図は、イギリスで人気のあるハード・ウオッチングには及ばないが、ヨーロッパの人間に聞かれても、恥ずかしくない風景である。
ところが、その同一人物が、少年時代、動物たん白をみずから補給するため、小鳥をわなで捕え、むし焼きにして食べていたと話したら、彼らどんな顔をするであろうか。事実、戦前の食生活はひどいもので特に農村に育った者にとって、魚・鶏肉・鶏卵などは、盆・正月・祭礼・病気用で、いつでも口にはいるものではなかった。いきおい、学校の帰り道など、わなの話に夢中になり、魚がいるという情報を得れば、ふつ飛んで行くことにもなる。このような少年時代をなつかしむ五十台も多いであろう。
今は、食物の中にうずまっているようなもので、間食のためか、夕食を抜いても、空腹を感じない子もいるという。「物の豊富なことが最大の不幸」などとうそぶく気違いじみた世の中である〇話はとぶが、我々日本人は、犬の飼育が一般にへたで、良犬をだ犬にしてしまうことが多い。その点、狩猟民族といわれるヨーロッパ系はたくみで、こつは過食をさせないことにあるという。ハングリーの精神は、スポーツ界だけのことではないらしい。
我々は、確かに、物にあふれた現在のような社会を夢みて、しゃにむに働いてきた。しかし、成就の暁に、当然付随して表われる暗雲を、想定することができなかった。
凡夫の考えは、しょせん「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」と看破した二千五百年前の孔子のけい眼に、遠く及ばないのであろうか。それとも人間の精神のある部分の、停滞・退えいは救いがたいものなのであろうか。
(白河市立白河中央中学校長)