教育福島0078号(1983年(S58)01月)-037page
随想
ずいそうずいそうずいそう
思い出
桑島達
光陰矢の如しで教員生活も三十有余年になった。今顧みると漸塊にたえないことばかりだが、その間の思い出を一、二を述べてみたいと思う。
初めて教員として勤務したのは、昭和二十二年の戦後間もないころで、当時、人心は余程落ち付きつつあったが経済的には全くの混乱状態で、日々の生活にもこと欠く始末で現在ではとても想像できないような時期であった。赴任した学校は戦時中に技術者増強を目的として設立されたが、もともとは商業学校なので戦後以前の姿となり、わずかに機械・電気各一クラスの生徒が間借りしているという名だけの工業学校であった。教員も専任は三名なのでクラスの生徒とはほとんど一緒の生活となり、授業も時間割とは別にその時の進度により同一科目を何時間も続けたり或いは関連科目を同時に指導したりと甚だ無茶な授業であった。
このような学校なので一番困ったのは「実習をどうするか」ということであった。幸いにも地域のご協力が得られ実習時間を集約して一か月ほど数か所に分散したが、市内の工場にお願いできた時は一安心したものだった。
物がない時期の特殊な授業運営だったと記憶している。生徒諸君は再生紙の印刷が不鮮明な教科書で未熟な教師の指導のもとこのクラスだけで終わりましたが昭和二十五年工業高校卒業生として、社会に巣立って行きました。
次は、昭和三十六年からのことですが、ここも最初は前述同様の学校でした。
草創期には、一部の校舎しかなく、しかも実習工場が大部分の所に、四科八クラスの生徒が入学しましたので、製図室に三クラス、理科実験室に二クラスを入れて授業するという状況で大変賑やかなものでした。実習についても機械科以外は施設・設備がなかったので、ペンチを各自持参させて二学期の中ごろまで、電気工事(主に電線の接続)のみを実施するという次第でした。
そのころは、本校舎の建設と科の実習工場の設計、電気設備の総括や学習活動の準備などで毎日六、七時まで勤務したように記憶している。
特に、産振関係の施設、設備は入手が大体一年後になるまで、設備は二年目で三年間指導する実習テーマから基礎・基本となるものを選び購入計画を立てることになるが、予算の関係でなかなか思うようにならず再三手直しが必要となり苦労したものです。
しかし、その後関係当局や地域の人々のご支援とご協力により歳月とともに整備され、現在では県下有数の工業高校となった。
長い歳月の間には種々のことがありましたが、特に、この二時期が今でも鮮明に思い出されるのです。やはり、思い出はなにか心に残るものがあることが必要のようです。最初は学校でたての若輩で、その上指導する科目が初めてのものばかりで学習指導には大変苦労しました。そのころのことは、今顧みて汗顔の至りですが、とにかく盲蛇に怖じずで自分なりの全力投球をした満足感があるからだろうと思っている。
また、職員室の雰囲気がよく、初めは商業科や普通科の諸先輩ばかりなので話題にもこと欠きましたが、なにかと相談相手になっていただき専門外知識や、教員としての教養など得たことはその後の教員生活に非常にプラスになったように思っている。
次は、ある程度の教職経験も得、またこれからという学校でしたので、ここでは陣痛の苦しみといいますかそんな苦労があったから今懐かしく思うのかもしれません。今になれば、あの方が良かった、この方が良かったとの反省ばかりですが、その時は精一杯努力したと思っている。
これからの先生がたは以上のような経験をされることはまずないと思います。しかし今後益々多様化する生徒を迎え、学習指導に、特に生活指導において現在以上の困難事に遭遇されるは必至と思います。どうか先輩の指導と同僚の協力を得て、教師としての誇りと生きがいをもって、進んで難関を突破していただきたい。
私はささやかな「思い出」を述べましたが、若い先生がたはもっともっと素晴らしい「思い出」を数多くもたれるよう祈念致します。
(福島県立平工業高等学校教論)