教育福島0080号(1983年(S58)04月)-029page
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() |
随想
マンネリズムとの闘い
![]()
春日 会津美
四分の一は、十二進法時代の名残りかもしれないが、現代社会でも重宝に使われている。外国には、四分の一の硬貨があるし、四分の一を単位とするゲームもある。四半期とか四半世紀という区切りもある。
さて自分が教師になってから四半世紀もたってしまった。向上のあとのない自分を深く反省している。一度身につけた指導法を簡単には改められないで、十年一日の如く繰り返す自分の中にあるマンネリズムヘの反省である。
しかし、一昨年の十一月にアメリカとカナダの学校を訪問してから自分が変化したように思う。カナダでは、バンクーバーから少し離れたところにあるハーソズビュー中学校を訪問した。その学校の教育課程は一年を四学期に分けている。一学期は九月から十一月、二学期は十一月から一月、三学期は一月から四月、四学期は四月から六月。これは必修教科が一学期で落第(五十点未満)した場合に、二学期の選択教科をへらして、その教科が補強できるためである。必修教科には英語、社会数学、理科、体育がある。選択教科は木工、金工、機械、タイプ、食物、被服、ドラマ、美術、バンド、合唱、放送、脚本、製図と数多くある。生徒が希望した教科をコンピューターで処理して時間割を編成する。またラーニング・アシスタンス制をとり、優秀な生徒と遅れている生徒をペアにして指導・している。この地区の教育目標は職業
教育にある。したがって中学校の選択教科は、初歩的な職業教育である。生徒に、自分の興味や関心のあるものを選択させ、どのような仕事があるかを広くつかませることに重点をおいている。 高等学校に進んで、その中の一つを選択し、より高度な技術を本格的に習得して社会に出る訳である。最近のアメリカでもカナダでも、実社会では何かができることが生活を支えている。何かを知っていることは、それ程役に立っていない。大学出の法律家が生活が苦しくトラックの運転手をしている例もあるそうだ。つまり「わかる」だけでなく「できる」まで到達する学習か大切であることを痛感してきた。
中学校の英語も一昨年から一週三時間になり、自分も指導法を変えなければならない時であった。学習指導要領の英語の目標も「聞いたり話したりすることができるようにさせる」「読むことができるようにさせる」「書くことができるようにさせる」になった。自分の英語指導の中心は、英語を「わからぜる」「理解させる」にあった。そのため説明することが多く、生徒は「1ができる」までは到達しなかったのである。言語活動中心の指導が叫ばれて久しいが、納得のいく授業ができずに悩むことが多かった。しかし一週三時間で指導するからには、理屈ぬきで自分のマンネリズムから脱出しなければならなかった。
現在は、山間地の学校に勤務している。英語の環境には恵まれないが、新築された立派な校舎に、一・学級三十数名という理想的な規模であり、生徒が意欲的であるのが何より嬉しい。入学してまだ二週目の一年生も、アップルアップル、アップルA、バック、バック、バッグB、カップ、カップ、カップCとやっているうちに、アルファベットが言えるようになった。元気にアルファベットの歌をうたえるようにもなった。男子生徒の一人、か廊下で出会ったとき、得意になって教科書を見ないでうたえるようになったと話してくれた。
その子は、桜の花が開きかけた校門を自転車で下校するとき、大声でABCD…とうたつていた。家につくまでハッピー、ハッピー、アイムハッピーを繰り返していたことであろう。三年生の英語の歌も、窓から入ってくる暖かい風に刺激されてか、昨年より一段と元気になった。多くを説明して理解させようとするよりも、何かが「できる」ことの方が学習の効果はあるし生徒にとっても喜びとなるのである。
大きな口をあけて、元気にABCD…とうたつている一年生の姿に、挑戦している自分の姿を見るように感じ、自分の中のマンネリズムから一歩一歩脱出しつつあるのを体に感じるこの頃である。
(いわき市立三阪中学校教諭)
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() |