教育福島0080号(1983年(S58)04月)-031page

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随想

 

教としてのめざめ

 

佐々木正則

 

佐々木正則

 

大言壮語になるが、教職三十年の間に、私が教育観を変容した転機が三回あったように思う。新任時代は、進学校だったから、大学入試の傾向分析と資料の作成に明け暮れ、練習問題と類似したものが出題されたと聞くと有頂天になるという調子だったから、就職希望者たちにはあまり目をかけなかったかも知れない。そんな教師だった。

 

一回目の転機は、通信教育生との出逢いであった。生徒たちにとっての「学習」は今の職場で、今の生活のためにはどうしても必要な学習でありどうしても欲しい卒業資格なのである。だから、生徒たちの目は輝き、なんでも吸い取ろうとする勢いと勢意があり熱がこもっていた。スクーリングのあとでは人生論や社会観を語らい、まさに師弟融和の教育活動となり、教師としての生きがいを感じた時だった。

 

次は、社会教育行政にかかわった時であった。一見、平穏無事にみえる地域社会の実相は、種々雑多な問題をかかえており、「学習活動」だけでも容易ではない課題をもっていた。教育機関や関係団体などと連携をもっておられる方々は別として、「興味も感心もない」「必要なし」ということで、学習の場に近づこうとしない世代、とくに二十代では男女、三十代から四十代にかけては男子の多いことと、かつて近隣社会がもっていた連帯感の希薄化と教育的機能の退廃が予想以上であったことにがく然とした。

家庭人として、また社会人としての生き方を学ぶべき青年層が学習を敬遠し、また共働き家族が多く、子どもの成長期で、もっとも大切な時期に父親不在、母親不在の中で育てあげ、親の期待だけはのしかける。子どもにとって親は逃げと攻めだけの存在でしかなくなる。

だから、青少年の非行化防止運動を取りあげてみても、活動すべき主体者の存在しない運動となり、その効果は望み薄くならざるをえない。望むためには、主体者が「学習」し目覚める以外にはない。

その「学習」とは現実を見つめ、学習課題を掘り起こし、 「現在を生きること」の意義を考えあい、新しい地域社会づくりをする必要がある。その中で教育機能を復権させることこそ青少年教育の根幹となり、地域社会と高校とが更に近づけるものと信じたことだった。

 

三回目が現在である。九年ぶりに現場に戻ってみると、予想はしてきたが生徒の多様化はまさに多種多彩であった。しばらくぶりの校舎はやはり素晴らしい文化の殿堂であり、光り輝いて見えた。学校という所は、やはりなんともいえない尊厳なものをもっているものである。

それはそれとして、今の生徒たちに欠けているものは「基本的な生活習慣」であるといわれている。数多い原因の一つとして、高校教育が普及するにつれて教育格差が広がり、その結果自分の生きざまの「先が見える」、つまり、結果が見えすぎるほど見えるということになる。また、優越感を味わう数よりも、挫折感を味わう者の数がはるかに多い。何のために「生きる」のか「勉強する」のかわかろうとさえしない。「したい」ことに走り「しなければならない」ことから逃げようとだけ考える。それは、クラスなどの集団生活を見ていても、表面は親しそうにしていても、決して芯のところでは許しあっていない。むしろ集団とは敵対する感じさえする。

 

生徒に「生きることの素晴しさ、難しさ、苦しさ」に気づかせるためには感動や自律・共同の心をうえつけさせることが大切だと考えている。そのために社会教育的高校教育などという、「教育珍用語」をあみだし、心と心をぶつけあう教育こそ本当の教育だと信じ、それに徹している毎日である。

(福島県立福島農蚕高等学校教諭)

 

 

 


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