教育福島0081号(1983年(S58)06月)-023page

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随想

 

ふたたびの喜び

 

水野亨

 

水野亨

 

理科室での授業を終わり、職員室に帰ろうとして廊下を歩いていると

「先生、足、けがしたの?」

と、声をかける女の子がいる。みると、この四月に入学したばかりの一年生である。

一瞬、どう答えたらよいか迷っていた私に、

「痛くない?」

と言いながら、私の顔をのぞきこむ心配そうな子供の顔。

「大丈夫、もう痛くないよ」

と答えると、安心したように、にこつと笑って、教室に入っていった子供の後ろ姿を見つめているうちに、目頭が熱くなってきた。

このように、やさしく思いやりのある子供達に囲まれて、教師としての仕事が続けられることの幸せに…。

私は、現在、骨髄炎のために左大腿部を二分の一以上切断し、義足の生活をしている三級の身体障害者である。

昭和五十五年の一月、左大腿部の骨髄炎のために入院した私は、四回の手術にもかかわらず病は治癒せず悪化するばかりであった。そして、十月の末「このままでは、他に病菌が転移してしまうので、今のうちに大腿部を切断しないと駄目です」

と、主治医に宣告された。ショックで、目の前が真っ暗になった。

もう、これで教師として再起することなんて不可能だなと思う気持ちと、片足だけの人生なんて生きていく価値があるのだろうか、死んでしまった方が、だれにも迷惑にならないでいいのではないかなどと思い悩み、その夜はなかなか眠れなかった。

次の日、医大からおいでになられた本多医師が回診され

「気持ちの整理はつきましたか。自分の身体の一部を失うということはだれでもつらいことなのです。そのつらさを乗り越えて社会に復帰することができるかどうかは本人の精神力なのです。片足がなくなるくらいがなんですか。それよりもっとひどい障害の人が大勢社会に復帰してがんばっているのですよ。あなただって、きっと学校にもどれますよ」

と、話された。

一晩、悩み、苦しんだ自分が恥ずかしかった。

十一月二十日、私の左足は大腿部をほんの少し残してなくなった。

翌年一月八日、訓練用の義足ができてきた。早速、身につけ歩こうとしても、重いうえに痛くて、ほんの二、三歩しか歩けないので、がっかりしてべそをかいたら、義足製作の人が、

「初めて義足をつけた人で、歩けた人はあまりいないですよ。立つのでさえやっとの人が多いのに、少しでも歩けたということはすばらしいことです」と、励ましてくれたので、なにか自信がわいてきた。

次の日から、病院の廊下で歩く練習をはじめた。二週間ぐらいは松葉づえに頼って歩いたが、その後は一本のつえで歩けるようになってきた。うれしくてうれしくて、毎日がむしゃらに歩く練習をした。

二月十三日、主治医より外出の許可がおり、家内に付き添われて病院の周りを歩いてみた。道路は凸凹があり、歩きにくかったがどうにか歩けた。はじめのうちは回りの人に見られているようで気おくれがあったが、一日も早く社会に復帰したいと思う気持ちがそれに打ち勝ったのか、歩くことに専念できるようになった。

「病院で手当することはもうなにもありません。あとは、あなたの努力だけです。退院してよろしいです」

と、主治医から退院許可がでたのは三月一日だった。

退院してから間もなく、町の教育長さんと校長先生がお見えになり「復職できるように手続きをするから、心配しないでがんばるように」と、言ってくださったときは、とてもうれしかった。そして、関係各位のお骨折りで教職に再び戻ることができ二年が過ぎようとしている。

復職後の私の毎日は充実感で一杯である。それば、職場のみなさんをはじめ、大勢のかたがたの暖かいはげましと援助、そして、子供達の思いやりの気持ちに支えられていることと、身体に障害があってもくじけまいとする自分自身との戦いがあるからである。

(三春町立中妻小学校教諭)

 

 

 


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