教育福島0081号(1983年(S58)06月)-026page
随想
城あとに立って
河原田善一
「ドーン、ドーン、ドーン…」
午後六時、武道館の太鼓が鳴る。と同時に「メーン、メーン、メーン…」子どもたちの元気のいいかけ声と竹刀の音がこだまする。数分前には、時間に遅れまいと、袴に稽古着の子どもたちが、竹刀を手に顔をまっかにして走り去っていった。毎週二回、夕暮れどきの光景である。.
今、こうした武道館に通ってくる子どもは、伊南村の子どもの三分の一の百人にもなっている。
もともとこの伊南村は剣道の盛んなところで、大山剣友会長はじめ約四十人の有段者の方々が、子どもたちの指導にあたっている。村でもこの剣道を青少年の健全育成の大きな柱としている。
また、天保年間に作られたという剣道防具が、村の文化財として大切に保管されている。
こうした歴史と伝統に支えられた、現在の伊南の気風を作ったのは、文治五年から四百年伊南郷を治めた河原田氏であろう。
初代河原田盛光公は、源頼朝の奥州征伐の軍功により、伊南郷五万石を賜わり、現在の伊南中学校の南側に、駒寄城を築き、古町に東舘、西館を築いて下野国から移り住んだ。今でもこれらの城趾や舘趾が残されている。その後、十一代盛次公は、仙台の伊達政宗の攻撃に備えて、伊南川をはさんだ青柳の南に、新たに久川城を築いた。三方を川に囲まれ、残る一方も急竣な峰に連なる。まさに要害の地である。ここで盛次公は孤軍奮闘し、伊達や長沼勢の攻撃を最後まで防いだのである。
これらの城趾も、私たちにとって、「昔ここにお城があったんだと…」というような昔話になりつつあった。しかし最近新たに見直させられるきっかけが思わぬところがら持ち上った。
三年前に、田島町史編纂のために、鴫山城との関連で久川城を調査された日本城郭史学会の西ヶ谷恭弘先生から「規模は大きくないが保存状態が非常に良い。大手門から続く家臣の家敷跡が残されているのは大へんめずらしく史跡としての価値が非常に高いので、ぜひ保存してほしい」というお話があった。
それで昨年五月、西ヶ谷先生の案内で関係者と踏査を行なった。−久川城は、青柳南四町にあり、東西一町、南北四町、東、西、北三方に乾隍を廻す。北を本丸とし、二ノ丸、三ノ丸其の南に続き、間に堀切あり……東の麓に升形の趾なりとて石垣尚存す−と新編会津風土記に記されているが、おどろいたことに、ほとんどそのまま残っているのだ。先生の説明を聞いていると、今まで土塁の跡となって、四百年の時をこえて見事によみがえってくる。耳をすますと、鎧武者たちの声が聞こえてくるようだ。
このような伊南村の原点であるこの城跡を後世に残すことは私たちの義務だと思う。
しかし、単に城跡としての形のみ残すのではなく、“こころ”もいっしょに残したいという考えから、今“古城のあるふるさとづくり”が検討されている。
竹刀を肩に、子どもたちが通う武道館への道は、かつてお殿様がお城へ行くための道でもあった。子どもたちにとっても"お城"は大きな夢でもある。その夢がやがて、心のよりどころとなり、さらに、ふるさとの姿として心に焼付くことを願っている。
子どもたちが身も心も健康に育つことを願って、親をはじめ地域ぐるみで祖先の遺産を正しく理解し、残して行きたいと思う。
(伊南村公民館主事)
久川城の館跡