教育福島0081号(1983年(S58)06月)-034page
司書ってなあに?
福島県立図書館主任司書
佐藤美男
図書館コーナー
−ホラ、図書館の職員のことだけど書士? 書司?
−ああ、シショ、「司書」のこと?…というわけで、今回は図書館に勤める専門職員“司書の仕事について説明し、併せて公立図書館が現代社会に対してどのような役割をもっているのかその一端をお話したいとおもう。
いつぞやの当館報「あづま」でも紹介したことがあるが、作家の海音寺潮五郎の随筆にこんな話があった。
彼の中学時代の友人で、医師のK氏が、既に功成り名遂げて今は自分の医院も子息に譲り悠々自適の毎日のはずなのだが、その後の消息をきいてみると、意外や身の置き場もない程退屈しきっているとの返事である。そして二人は次のような会話をする。
「ぼくは君も知っている通り、きまじめなおとなしい子どもで、教科書以外のものは全然読まなかったから、読書の習慣というものがないのだ。現在ぼくが最も後悔しているのは、学校の規則や先生たちの言いつけをよく守って、教科書以外のものを全然読まず、読書の習慣をつけなかったことだ。痛恨事だ」
「そうだったな、あの頃、学校では禁止していたな。ばかげた規則だったな」
海音寺さんは少年の頃を思い出して嘆息し、だんだん腹が立ってくる。海音寺さんはそんな規則をかいくぐって本を読んだのだが、まじめだったKさんばそうでなかった。そして今持てあますほどの時間がありながら、本を読んで充実した時間を楽しむことができない。海音寺さんはこう結論する。1終身教育ということが近頃言われるが何より大事なのが、子どもの時に読書の習慣をつけさせることではないか。読書の習慣がつけば、おのずから終身自らを教育するようになるのだから、と。
この話には、読書のすばらしさが余すところなく語られている。そして読書の習慣−特に子どもの時の習慣づけがいかに大切かを痛感させられる。
ところで、この習慣はどのように形成されるのだろうか。本を身近に置いておくだけで自然に読書の習慣が身につくものなのだろうか。勿論そのようなケースがないわけではないが、多くの経験が教えるところでは、やはり本と人を結びつける仲人役としての「人」の存在が重要な要素のようである。幼時に膝の上できいた祖母の昔話、寝床でおやすみ前の一時を和ごませてくれた母の読みきかせ、そして少年期における読書家の父兄や教師の影響等々。読書「原体験」上の「人」の役割は決定的なようである。そしてこのような「人」の介在を、読書好きの肉親や環境等々にめぐり合う幸運に恵まれない人々にも、社会的に保障しようとする機関が公立図書館であり、その役割を専門的に担うのが「司書」という職員なのである。したがって、このような任務を持つ司書には、第一に人々がどのような知的要求をもっているのかをその潜在的領域まで含めて鋭くキャッチするだけの資質が要求される。
「一言でいえば利用者を知る」能力である。第二に本(資料)をよく知り客観性をもった価値判断ができることは、専門職としての基本的要件である。資料を知っていてこそ、利用者の必要を理解し、適切に援助できるからである。
昭和五十六年の出版統計によれば、この年の新刊点数は二万九千三百六十二点にのぼる。このぼう大な出版物のなかから何を選択し、どのように提供するか、大きな社会的責任を将来にわたって課されているといわねばならない。そのための長期にわたる専門職としての訓練、自己研修は不可欠のものとなろう。
そしてさらに、利用者と資料を結びつける、その「効果的」な結びつけ方をも体得しておかねばならない。そこでは専門家としての能力・職見はもとより、行財政面での力量や組織力も厳しく問われることになるであろう。
海音寺氏の、「『終身教育』=生涯教育のキーは読書にあり」という言葉には限りない共鳴と、畏怖にも似た奥深さを覚える。それだけに、この重要な役割を担うべき唯一の専門機関としての図書館に対する、現状の社会的認識への苛立ちと失望感、同時にそこに働く我等「司書」の責任の重さとやり甲斐への自負、まことに必理的振幅の激しい日々ではある。