教育福島0101号(1985年(S60)06月)-024page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

この道にはいって十余年にもなりますが、まだまだこれで十分と言える毎日ではなく、ふと「これでいいのかしら?」と、不安な気持ちが起きてきます。特に女性は、独身時代はともかく、やがて結婚し、出産し、教師と妻とを両立させなければなりません。その上、夫や子どもの世話、隣近所の関係で休暇をとらねばならぬこともあり、また自分自身でも休まざるを得ないこともあります。親から責任をもってあづかっている子どもたちを思うと、胸の痛みを覚えます。このようなとき、常に励ましてくれるのが、同僚であり先輩です。

今年は、私たちの幼稚園でも、町の人事異動により、二人の先生をお送りし、保育所より新しい二名の先生を迎えました。

私は主任として、新しい同僚とともに園長の経営方針に従い、親から責任を持って預けられた子どもの生命安全を第一に考えて行きたいと思います。いくらりっぱな保育をしても大切な身体を傷つけたり、失うようなことがあれば何にもなりません。特に現代は、交通戦争の時代と言われています。一日たりとも事故のない日はありません。そのおそろしい事故から園児を守りたいと思います。

次には、何と言っても私たち自身が親や子どもに信頼される教師になり得ることだと思います。そのためには、常に真心を持って接し、家庭や子どもの理解を得るようにし、誠意が通ずるように努めることが大切だと思います。そのためには、やはり私たち自身の研修が必要ということにもなりましょう。十余年も過ぎると、とかくマンネリ化しがちですが、社会が絶えず進歩し、人々の価値観も多様化している今日、十余年前の保育技術や姿勢がそのままで良いということにはなりません。

 

以上、健康安全、子どもや家庭の理解と実態に基づく教育、そして絶ゆまざる研修を基本にしながら、園長指示のもと、今年も積極的な園経営にありたいと思います。

(富岡町立夜の森幼稚園教諭)

 

▲サッカーボールを追いかける園児たち…

▲サッカーボールを追いかける園児たち…

 

鬼手・仏心

田崎 富雄

 

物より、鬼手・仏心という文字を見つけたので、そのことについて考えてみた。

 

過日、或書物より、鬼手・仏心という文字を見つけたので、そのことについて考えてみた。

 

〃鬼手・仏心”鬼は、神をいうのだから、神の手・神の技、人間の力及ばぬほどの優れた技や術をいうのであろう。仏は、仏陀のこと。仏陀は覚者・智者のことである。智者、それは人間の生活条理をわきまえた単なる物知りではない。菩薩さまのほほえみ、慈愛に満ちた、慈悲像のほほえみであり、相手を思いやる暖かい心のことであろう。こんなふうに私なりに考えてみた。人が人を超越して鬼手となり、仏心をもつことははるかに遠い。これはまさしく夢のような理想であるが、特に教師にはこのような在り方が求められているように思う。

 

現在、臨時教育審議会において、教育問題が審議されているが、教育改革のねらいは、教育の外側よりも、教師自身の中にあると言われている。七十年代から、登校拒否、学校嫌い、校内暴力等の問題が、つぎつぎと生じているが、この問題が教育改革の大きなウエートを占めているようである。教育制度や内容を議論する前に、教師の資質が問われている。教師の問題が解決すれば、教育改革は半ばできあがることになる、と述べられている。

学校教育活動の大部分は授業であるから、授業に求められる教師の資質をとりあげてみよう。授業研究において教師のはたらきかけや、予想される反応まで、全く同じ内容で二人の教師が授業を行った場合、その成果に差がでてくるのはどうしてだろうか、それは教育技術以外の、教師の生徒に打ち込む情熱や愛情などが、教育の成果に大きく影響しているように思われる。この生徒のためにと、全力をあげて教材に生命を吹きこみ、指導の手だてを求め続けられるとき、おのずからその心が、表情・話し方・身ぶりとなって現われ、生徒を引きつけて離さない授業へもりあげる。

小学校において、同じ学級を続けて二〜三年持ちあがると、教師のくせや人間性が児童にうつるともいわれている。これは、教師の指導内容以外に、何かを児童にさずけていることを示している。中学校においても、尊敬する教師の教科が好きになったり、気の向

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。