教育福島0101号(1985年(S60)06月)-025page
かない教師の教科が嫌いになったりすることがある。これは、教師の人間性や、教育への熱意が大きく影響しているものと思われる。
よく、教育は人にあり、といわれているが、それは、教師としての専門的・技術的側面と、人間的・人格的側面の両面が優れている人のことであろう。片方が欠けては、他方がいかに優れていても教育効果を期待することはできない。いうならば、前者は、専門教師をさしており、鬼手・仏心の鬼手のような、技や術をもつ人であり、後者は人間教師をさしており、仏心、つまり慈悲心をもつ人であると考えた。
教師は、鬼手・仏心を持ちたいものである。
(白河市立白河中央中学校長)
木造阿弥陀如来坐像
(古殿町・西光寺)
辺地から……
長谷沼 恒一
私は現在、二度目の単身生活中である。一度目は、気候の良い浜通りの小高工業高校であったが、今度の只見高校は福島県の西端、人口約七千人の山間辺地である。新潟県と境を接し、冬期の降雪量が例年は四、五メートルをこえる。この雪どけ水を田子倉湖にせきとめ、只見川水系のいくつもの発電所を稼動させている。しかし、川沿いに山が迫った土地なので、これといった産業はなく、人々は猫の額ほどの田畑を耕作するほか、ぜんまい、わらび、きのこといった山菜採取などにたよって細々と生活している。
只見高校は、トンネル一つこえた新潟県からくる四人を除いて、すべてが町内の生徒たちで構成されている。ご多分にもれず過疎化の波がおしよせており、今年度は新入生が四十人のため、一学級減となってしまった。
このような環境下で育った生徒たちは、一言でいえば純朴そのものである。休み時間ともなると、教師のあとを追ってきて職員室で、方言まるだしで話しこんでゆく、人なつっこい生徒が多い。はなはだしくなると「ラーメンおごってけれや」「金借してけれや」などと無心にくる者までいる。
また、この町ではカラオケがさかんで、生徒たちのほとんどの家庭にセットがあるという。全校集会があったりすると、すかさずマイクをにぎってカラオケのまねをしたりする。生徒のこういった一連の行動をみていると、表面上の陽気さというよりは、雪深い厳しい冬をじっと耐えながら生きている、只見の人々の生活の知恵といったものを感じとることができる。
さて、私は、このような環境のもとで、六世帯が入る教員住宅で自炊生活を送っている。赴任当初は、生活様式の急変で多少の苦痛も感じたが「食べたい時に、食べたいものを」という気楽さもあって、現在はけっこう楽しく生活している。
本校は、独身の新採用教師が多いので下宿組の四人を含めて、いつも同じ屋根の下で寝食をともにしている。
およそ一日おきぐらいに、どこかの部屋で夕食会やミーティングが催されている。住宅の住人の中には、炊事が苦手な者もいるが、そこはうまくできていて、女性より上手と評判の者がいたりして自然に役割分担ができあがっている。腰が軽くて車に自信のある者は、隣り部落までの買出し。年長者はメニュー作り。腕におぼえのある者は炊事当番。そして金にゆとりのある者はスポンサー……などである。
こうしてお膳立てをしたところで、マトン肉を焼き、飲みものを飲みながら一日をふりかえる。話題の中心は、やはり生徒のことである。「生徒への対応のしかた」「学級経営」「授業の展開」「部活動」など、もりだくさんのテーマがあげられ歯に衣を着せない討論がくりひろげられる。まさに現職教育の実践である。このような生活共同体を構成しているせいか、なにごとにも全員一致協力で教務にあたることができ、職場のまとまりは大変良い。
こんな生活の中にも、不安がまったくないわけではない。一つは家族のことであり、もう一つは充実した病院がないことへの不安であるが、とくに後者については、病気にならないよう、ことのほか健康に留意している。
単身赴任二年目の春を迎え、もっともすごしやすい季節がめぐってきた。残雪を割って、こごみなどの山菜が萌え出すころ、只見の人々はにわかに忙がしくなる。
私も、若手の教師たちと一緒に貯えてきたエネルギーを全開にして、二年目をのり切りたい。
(県立只見高等学校教諭)