教育福島0101号(1985年(S60)06月)-027page
感謝の念でいっぱいである。また、かつて学校現場で不明だった学習指導上の問題や生徒指導の問題なども、一つ一つ分かりかけ、張り合いと充実感をもった生活をしている。
そんな中にあって、当教育センターの研修業務の一つである国語講座を担当するとき、私が大切にしていることは、受講される先生方と「共に学ぶ」という姿勢である。というのは、教材研究の方法や目標分析のしかたなど、お互いに研究し合うとき、自分が指導の立場に立つよりは、むしろ受講の先生方に教えられることの多いことに気づくからである。
また、国語講座の一コマの中に、演習として、指導案の作成や評価問題の作成がある。五〜六名からなる班を編成して、互いに知識を交流し、それぞれが持っている力量を発展させ、経験を交流することのすばらしさは、教育の現場である学校で生起する問題について理解を深め、広めていくものであることを信じて疑わない。
ここに、受講された先生方の反省記録を二つほどあげてみる。
「現在の勤務校は、生徒指導上問題のある生徒もおり、悩むことが多く、教職に自信を失い、やめようと思ったことが何度かあり、精神的にもおちこんでいた毎日でしたが、この講座で、また勇気がわいてきたようです。がんばります」
「教十冊も読まなければわからないことが、この四日間で簡単に、わかりやすくご指導いただいた。勉強不足の自分の姿、独り善がりの指導、狭い指導の自分の姿が浮き彫りにされる思いでした。この学習の中で、強く胸うたれ、これからの指導はこのことだと思い、はやく現場に帰って取り組まねばと、一人やる気を出しています」
私は、この反省記録を読んで、しばらく高なる鼓動を抑えることができなかった。学校現場での先生方の苦労と努力を思うとき、その鼓動は、安穏としている自分への戒めと化し、同時に真剣に学ぶことへの警鐘と転化した。
来年の桜の花は、ハープの音色にも以た花を咲かせてくれるであろうことを期し、共に学ぶ姿勢は生涯忘れることなく持続させたいものと、固く肝に銘じている。
(県教育センター長期研究員)
電話
高橋高徳
昨年の暮れのことでしたか、夜の九時ごろ、自宅の電話のベルが鳴ったので、受話器をとったら、余り元気のない女の声で、高徳先生のお宅ですかと問われたので、ハッと思いながらも、そうですと返事をしたら、私のことわかりますかと言われ、時折昔の教え子の電話はあるが、しばらく考えても全然検討もつかなかったので、わからないと言ったら、どこどこのN子ですと言われて、ビックリしました。考えてみると、私が教職最初の赴任地、約三十教年前の中学校(飯舘)の卒業生でした。声などでわかる筈もありません。
なんでこんな時にと聞いたら、次のようなことでした。
私は中学校時代目が見えなかった。(ひどい弱視)先生は担任ではなかったが、一番前の席にして呉れたり、大きな字を書いて貰ったり、私のような者を、学校帰りには必らず、がんばれよ、気をつけて行けよと温かいことばをかけて貰ったことが、どうしても忘れることができず、先生は郡山の方に行かれたことは聞いていた。全然目が見えず、今は温泉街で指圧師で何とか他人の世話になりながらいるが、人生五十年の中で、先生だけは忘れ得ない恩があり、いつの日か一度だけ礼を伝えたくて、やっと電話を探して貰い、今になりましたとのこと。
この電話を聞いた私の胸に、なにか底知れぬ熱気の高鳴るのを強く強く感じました。
当時を思い出しても、言われてみれば、目の不自由なN子が、足をヒョンと上げながら歩いていたっけナ程度で特にその後どうした記憶もなく今に至ったが、お話を聞けば、中卒後目が不自由のために、他人には馬鹿にされ、いろんな点で苦労を重ねて生きてきたようだった。
現代の子どもたちは、養護される教育の中で、手厚い指導を受けられているが、終戦後間もない時代に、N子のような障害をもった子どもたちを今考えると、ほんとうに身がゾーとします。それにしても、黒板の字も、教科書もよく見えないので、先生のお話をじっと聞く耳だけの学習だったとか。
私もかつて養護教育十年間の経験を通じ、数多い悲喜の想い出と感想もあ