教育福島0102号(1985年(S60)07月)-006page

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提言

 

堀り下げる

 

陶芸家 宗像 亮一

 

【筆者紹介】

 

【筆者紹介】

宗像亮一・むなかたりょういち

昭和八年六月六日 福島県会津本郷町に生れる。

昭和二十四年三月 福島県立会津中学校三年三学期終了と同時にこの道に入る。以来、父豊意に師事し先祖伝来の陶技を学び現在に至る。

昭和二十九年   日本民芸館長柳宗悦氏の来訪を受け大いに激励さる。

昭和四十五年六月 父豊意他界し、宗像窯の七代目を継承する。

昭和四十六年   第一回日本陶芸展優秀作品賞(毎日新聞社賞)を受賞。以来毎回入選。

昭和四十八年   日本民芸館賞受賞。

昭和四十九年   カナダ・トロント世界工芸展推選出品さる。

昭和五十八年   第一回全日本伝統工芸選抜作家展に推選招待され出品。

第七回日本陶芸展推選招待され出品。

第一回日本民芸館長賞(特別賞)受賞。

昭和五十九年   第二回全日本伝統工芸選抜作家展に推選招待出品。

日本橋三越六階工芸サロンにて個展。

昭和六十年    第八回日本陶芸展推選招待され出品。

 

作陶の道を志して早や三十五年の歳月が流れた。

陶芸の世界は果てしない探求の世界であり、限り無い努力と精進−−作陶の過程での様々な体験参要求される。一人前の陶芸家として認められるまでには、長く厳しい修業が続けられる。

 

私自身、未だに自分が納得できるような作品がっくれないプロとして誠に恥ずかしい次第である。しかし物造り≠フ世界というものは、大体しきみなそんなものではないだろうか。後世にまで残り得るような生命の長い良い作品が、そんなにたやすく出来る筈はない。こういつてしまうとそれは物造りの逃げ、諦めなどと思われがちであるが……。

 

若い頃は、世の中に不可能が無いかの如く、理想も高く、ただがむしゃらに新しい物造りに挑戦するものである。当時、すでに父とともに二十年近くも一緒に仕事をしてきていた私は、いとも簡単に作品を造り上げる父の仕事振りを見て、「俺だって親父の仕事ぐらい何時だってこなせるさ」などと生意気にも、また軽率にも考えていたものである。

丁度その頃、大変なできごとに直面した。

それは、父であり、師でもあった宗像窯六代目・豊意の死である。それはまさに私を今までにないどん底に落しこんだ。あんなに簡単に見えた父

 

 

 


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