教育福島0102号(1985年(S60)07月)-024page
ているのであるが、有名地ばかりが絵の題材となるのでなく、美術家にとって美しい風景とは、作者個人にとって「絵になる風景」が、つまりは美しい風景となるのであろう。どの風景を選び、どのように表現するかは作者の心の中のイメ−ジに係ることであって、ある人は、なるべく自然そのままに、あるがままに画面に写し出そうとする写実的な表現をとり、ある人は、自然を視覚的に見たままを絵にするのを物たらないと思う人もあるだろう。どの表現法によるにせよ、作者が風景の美しさに魅せられて、気が乗って描き上げた作品は楽しいものである。
斉藤与里作「裏磐梯」65.5×80.5・油彩
ところで、福島も含めて東北の作家の絵は一般に暗いと言われることがある。それは冬の曇天の日が多い気候のせいとも思われるが、風土が作風に及ぼす影響とも思われて興味深いことである。もちろん、絵の明るい、暗いは作品の善し悪しには関係がないのであって、明るい色を好む人、暗い色を選ぶ人と個々の作者の個性と見ればよいのであろう。ただ、暗い色と濁った色とは区別されるべきだと思う。暗く見える絵の中には絵具の使い方による濁った色彩の作品が見受けられる。ここで想い出すのは二十歳の若さで夭折した本県出身の天才画家・関根正二の作品である。彼の作品には、暗い色調でありながら、強烈な朱色を主調として色彩の魅力が溢れている。朱だけでなく、ブルーも濁りがなく、色が澄んでおり、どこか、福島の青い空を感じさせる。洋画家・金山平三は、東北の風景も多く描いているが、絵具の溶き方をはじめ油彩技法を研究して、明るい色彩の、澄明な作風の作品を描いている。
福島の冬は曇天の雪景色となって、色彩は単調であるが、春から秋にかけては新緑や紅葉の多彩な風景が展開する。今日の美術は、写実的な表現のみならず、時代の流れを反映する多様な表現が試みられている。豊かな自然の澄んだ大気の中で生まれ育つ福島の美術家は、どのような表現法に立とうとも、澄んだ、内容の濃い作品を創造できることと期待されるのである。
(県立美術館学芸課長)
私と健康
渡 辺 昇
健康については、健康な日常生活を送っている間は誰しもあまり真剣に考えないことだと思う。私も子どものころ、戸外での運動が飯より好きで、毎日跳び廻って一日の大半を過ごし、疲れ切って夕方家路についたものでした。
そして、病気らしい病気一つせずに小学校・中学校(旧制)を過ごし、健康そのものの生活を送っていたわけですが、当時の社会情勢は、昭和十二年の日支事変、十六年の大東亜戦争(第二次世界大戦)へと日本は戦争の道を歩み、物資不足、特に食糧事情が次第に悪化し、国民誰しもが健康を保つために必要な栄養を十分補給することができない状態に追いこまれ、国民皆兵が叫ばれるなかで、体力の向上どころか、かえって体力の低下をまねく結果となっていた。死因別死亡率を見ると明かなように、結核・肺炎といった細菌による病気での死亡が上位を占め、特に結核については国民病といわれるまでになっていた。私も、当時の食糧不足に悩みながら、「欲しがりません勝つまでは」の意気ごみでがんばったもので、特に昭和十九年学徒動員として川崎の工場へ動員され、毎晩の空襲警報に怯え空腹をかかえながら、二交替制の作業を続けたものの食事は実にひどいものであった。量も少なく一汁一菜、今考えると到底健康を保つことのできる状態の食事ではなかったと思われる。このような情勢のなかで健康を損ね他界した友人もあり、戦争の一日も早く終結することを祈ったものです。
昭和二十年に入り、戦争は激しさを加え、戦況はますます不利となり、遂に八月十五日終戦を迎えたわけですが、食糧事情の劣悪さは、相変わらずで、栄養を考えて食事をする状態ではなく、口に入る物があればなんでも食べるといった状態で、病気に対する抵抗力は低く、私も二十三年春、専門学校(旧制)を卒業し、東京の都立高校へ就職したが、教員生活一年半位で遂に肋膜炎にかかり、二十四年十一月より五年間の闘病生活に入ることになってしまった。今までの生活で自分自身が病気で倒れることなど全く思ってもみなかったので、絶望のどん底に落ち入り、もんもんと暮らす日々を送ったわけです。その時になって、初めて健康の大切さを真剣に考え、有難さを知ったのです。幸い病気との闘いに打ち勝ち、