教育福島0102号(1985年(S60)07月)-025page
三十年福島県の教員として再出発することになり、会津の地にて教鞭をとること十二年、この間、体もすっかり元に復し、部活動に精を出し毎日毎日が楽しい生活でした。日が経つにつれて健康の有難さもいっか忘れがちになり、自分の健康状態を考えることもなく、若気のいたりで不規則な生活が徐々に多くなってきたが、三十年代に入ると食生活は大分良くなり、栄養不足ということはなくなり、再発することもなく無事過ぎ去ったわけです。
四十二年会津よりいわき地区に移ってからも、相変わらず授業、部活に精を出し、充実した教員生活を過ごすことができました。ところが、四十六年頃から、目まいを覚えたり、身体の不調を自覚することになりました。食生活の好転からか、暴飲暴食の乱暴がたたったのか、血圧が高くなっていたのです。恥ずかしながら再度自分の健康について深刻に考えなければならなくなってしまいました。医師の指示どおり脂肪・塩分などの取り過ぎに注意し、食生活を改善しなければならず、血圧食では食欲を十分に満足させることができず、食欲との闘いが数か月も続き苦しい毎日でした。血圧との闘いも約十年たち、今では血圧食にもなれ、快適な生活を送ることができるようになりました。
今後の健康を保って行くためには、第一に食生活に注意を払うことが大切だと痛感します。飽食時代といわれる現在、食欲にまかして好きなものを食べまくるのではなく、バランスのとれた食事を考えて行かねばならないと思います。第二に、規則正しい生活を送り、特に精神の安定を図ることが大切だと思います。第三として、自分の身体の状態を考えて、自分に合った運動を行い、絶対に無理はしないこと。
私はこれらの点に留意し、人生の半ばを越した現在、これからの健康に注意し、活躍の場を広く求め、充実した人生としたいと考えます。
(県立内郷高等学校教諭)
E君との出合い
高橋幸子
春の日ざしがまぶしい四月一日、期待と不安を胸に秘め、岩瀬郡鏡石町立第一小学校に着任しました。鏡石町は、文部省唱歌「牧場の朝」のモデルとなった岩瀬牧場のある、緑豊かなのどかな町です。学校は、町のほぼ中央の国道四号線沿いにあり、児童数八百九十二名、職員数三十三名の大規模校です。私は、退職された先生の後を引き継ぎ二年一組四十名の子どもたちを受け持つことになりました。
同学年の先生方から、「一組は、よくまとまっていて、いい子たちばかりですよ」というお話を聞き、内心ほっとしながら始業式の日を迎えたのです。式を終え、教室に入ると、四十名の子どもたちが、それぞれの表情で私を迎えてくれました。じっと私を見つめる子、にこにこしながら見ている子などさまざまでしたが、その中に、机の下にもぐって私を迎えてくれた子がいました。その子が、私に教師という仕事のむずかしさを教えてくれたE君でした。
E君は、両親よりは祖母にかわいがられ育てられてきました。表情に子どもらしい明るさがなく、いつもおどおどとした顔つきをしており、愛情不足を感じさせるような子なのです。そんなE君との戦いが、出会いとともに始まりました。
前担任の先生を母親のように慕っていたというE君にとって、突然私のような初めての教師に担任されたことがよほどなじめなかったのでしょうか。授業中、机や棚の下にもぐったり、掲示物を破ったり、教室をぬけ出したりなど荒れた日々が続きました。四十名の子どもたちをはやくまとめようと思っていた私にとって、E君一人に振り回される日々は、教師という仕事のむずかしさをいやというほど見せつけられたように思います。
しかし、自信を失いかけていた私を力づけてくれたのが諸先生方の励ましの言葉です。今のE君には、愛情を持って接することが一番という助言を信じ、ことあるごとに言葉をかけ、また手をつないだり、頭をなでたりするなどスキンシップにつとめた結果、一か月もすると、前とは見違えるほど落ち着きがでてきました。毎朝、前の日にあったことをまつ先に話しかけてくるようになりました。
E君と出会って、まもなく一か月半が過ぎようとしています。この前、E君に、「先生をお母さんと思って、何でも話してくれる?」と聞いたところ「だめ」という返事。それならと「先生をお姉さんと思って何でも話してくれる?」と聞いたところ、恥ずかしそうに、「うん」と答えてくれたのです。まだE君の母親代わりにはなれないけれど、愛情を持って体当りで接していくことの大切さをE君の指導を通してしみじみ教えられたように思います。
これからも、E君や他の三十九名の子どもたちとともにがんばり、より生きがいのある生活を送りたいと思います。
(鏡石町立第一小学校教諭)