教育福島0103号(1985年(S60)08月)-006page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

提言

 

生きる喜びを求めるレク活動

 

福島県レクリェーション協会長

渡部 宏

 

【筆者紹介】

 

【筆者紹介】

 

渡部 宏・わたなべ・ひろし

昭和二十三年七月、会津若松市役所学務課に勤務。以来五十七年三月までの三十三年七ヵ月のうち、社会教育関係が二十七年間という豊富な経験をもつ。二十五年社会教育主事、三十九年社会教育課長、四十三年公民館長、四十九年図書館長、そして五十七年文化福祉センター所長を最後に退職。その間、県スポーツ審議会委員、県社会教育委員、県青少年問題協議会委員などを歴任、四十三年県社会教育功労で表彰。

レクリェーション関係では、昭和二十四年若松スクェア・ダンス研究会を結成、三十年には全会津フォークダンス研究会会長、更に県フォークダンス連盟の副会長となり現在もその職にある。この間、日本フォークダンス連盟より三十六年感謝状、四十一年功労彰を受彰。四十四年県レクリェーション協会の再建と同時に、県レク指導者クラブを結成し会長となり、五十年全会津レク指導者クラブを結成、−会長となる。クラブは五十八年日本レクリェーション協会の表彰をうける。五十六年に県レクリエーション協会の会長におされ今日に至る。

現在は、社団法人会津若松市シルバー人材センター常任理事(事務局長)の職にある。

 

私がレクリェーションという言葉に興味を持ったのは、戦後間もなく施行された社会教育法の中で日本語に適訳がなく、そのまま日本語化されたということになにか新鮮味を感じたからである。従って、明解な答が得られないまま、不安と貧困の中でなにかに希望を求めていた時、その暗さを吹き飛ばすような軽央なリズムに乗って燎原の火のように普及しはじめたアメリカスクエア・ダンスを中心とするフォーク・ダンスは、老若男女、誰でも、いつでも、どこでも気軽るに踊れるというキャッチフレーズで忽ち多くのファンを生んだ。私もその一人で、無我夢中で習い、踊り、そして普及にあたった。従って、このころはレクといえばフォーク・ダンスといわれたものである。

私達は、戦後の十年をレク運動の開花期、といっており、日本の復興のためにがむしやらに働いた時でもあったので、レクは“労働に対する元気回復”であったともいえる。

昭和三十年を越え、四十五年ごろまでをレク運動の充実期、といい、神武景気、所得倍増、消費は美徳、レジャーだ、バカンスだとマスコミにも騒がれ、工業の機械化、オートメーション化とともに、余暇が次第に増えてきた時代であるから、レク活動は当然“余暇の健全利用による心身の健康づくり”に入った。職場レクが盛んになったのもこのころで、企業経営者の側も、働く者

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。