教育福島0103号(1985年(S60)08月)-023page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

随想ずいそう

 

忘れ得ぬへき地

 

忘れ得ぬへき地

阿部 良全

 

。幻想の地吹雪。万物凍るような中で軒から垂れる二メートルのつららを見た。

 

春の遠い山里は、五月はじめ一斉に花開き、やがて、わらび・惚の芽が萌える。短い夏は頭上の雷鳴に驚き、錦の衣を纏い始める山のうつろいに秋を知り、霊山の夕映を飽かず眺めた。そして長く厳しい冬−。幻想の地吹雪。万物凍るような中で軒から垂れる二メートルのつららを見た。

 

私は昭和五十六年から三年間、県北端の阿武隈山頂、相馬市立玉野小学校に勤務した。複式二学級、単式二学級のへき地小規模校であった。二年目、降って湧いたように文部省から「へき地教育研究校」の指定を受けた。今まで研究校など一度も経験したことのない二十歳代の若い先生方ばかりであった。でも先生方はたくましく立ち向かった。

「自ら学びとる力を育てるための個に応ずる指導」を研究主題として、年八回の授業研究、更に一人月二回、校長・教頭参観指導の自主授業を継続し、自らの指導力を高めていった。個への手だてをとり入れた指導過程を編み出し、個人カルテを作成し、学習訓練に力を注いで昭和五十八年の秋、多数の参加者を得て公開発表を終え、大任を果たしてくれた。

子ども達は確かな変容を見せた。その成果は「教師の変容なくして子どもの変容はあり得ない」と、全職員一丸となり取り組んだ教育に対するひたむきな情熱と実践力の賜に外ならない。共有の目標を持つことの大切さ、協同実践の尊さを改めて痛感した。

誰言うとなく「霊山」と「良全」に懸けた「りょうぜん会」が生まれ、年一回、思い出話に花を咲かせ、人の世の出会いの尊さをかみしめている。

○よきことの山の三とせを憶いいて仰ぐ碧天 雲ひとつなし

山の子どもらと別れる日であった。「校長先生、ぼく、何にも上げるものないけど、これ、持って行って−」

男の子が紙袋を差し出した。何も入っていない何の変哲もない紙袋である。

「なに? これ」

「この中に玉野の空気が入っています。先生、玉野を忘れないでね」

私は絶句した。何という素朴なアイディア、そして、心こもる贈り物であろう。今なおこのことは思い出すたびに強い感動となって私の身を震わせ、胸を潤ませる。

純真で明るく、自己を伸ばそうと努力した子ども達、目標に向かいひたすら取り組んだ職員たちを、私は終生忘れることはないだろう。へき地の学校に教育の原点をみた。

 

私はいま、県の東南端、海のある学校にいる。校舎改築中で多目的スペースをとり入れた学校づくりが進められている。その活用法を探り個に応ずる指導法を求めて、私にはまた一つの目標ができた。教職の道、生き甲斐あり。まこと、有難きかな。

(いわき市立江名小学校長)

 

F君の思い出

 

F君の思い出

富岡 ケイ子

 

「先生、自分の顔、描いても、いいのがや」

 

「先生、自分の顔、描いても、いいのがや」

次の時間に、友だちの顔を描くので休み時間に二、三人のグループになっているようにと話をしたときのこと。変なことを言うF君だな、と思ったが、

「友だちの顔を描くんだよ」

と言って、私は教室を出た。そして、教室へ戻り、樗然とした。友だちと向かい合うこともなく一人でいるF君の机の上には、鏡が置かれてあったのだ。私の体全身に、さっきの言葉がつきささってきた。自分には、描く友だちがいないことを知っていての私への心の訴えだったのだ。それが分かってあげられなかった自分がなんとも情けなくなってきた。

周りの子は、楽しそうに、お互い顔をさわったり、特徴は何かなど話をしたりしている。どこかにF君もまぜて

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。