教育福島0104号(1985年(S60)09月)-025page
私の生涯学習
高津滋男
昭和の初期、経済大不況のさなか私の家は東京中野で時計商だった。小さな商店経営の苦しさは幼い私にまでなんとなく感じられたものである。
「只野凡児」の漫画がはやり、「ルンペン」とか、「大学は出たけれど」という言葉を耳にした記憶もある。
夏になると東京中の人達が皆狂ったように「東京音頭」を踊り、この大不況を忘れようとした。その陽気な節まわしを聞き、何も知らない私達子供はただ浮き浮きしていた。
「向かいのラジオ屋の店員はブラジルへ渡った」「洋服屋のおやじはアメリカで皿洗いをやっているそうだ」などの話も耳にした。そんな時、私は海の彼方の豊かな国を想像し「いっか僕もおとなになったら外国に行くぞ」と考えていた。
幼時の夢は戦時中のスラバや海軍運輸部勤務と、戦後の上海大成行就職で
一応実現した。だがどちらも二年たらずで、日本の敗戦や中国の内戦そして新中国誕生という大きな歴史の波に流され中断した。生活の安定を求め私は方向転換を決意、教職の道を選んだ。
福島県の教員になってからは、趣味として海外旅行を楽しむこととし、昭和四十六年に互助会主催のヨーロッパツアーに参加以後、年に一回は東南アジア・ヨーロッパと外国でさえあればどこでもよいと歩きまわった。
ところが四年前、新聞紙上で日本の大学の先生が北京で日本語教育に従事している記事を興味深く読んだ。そして「日本語教育の技術習得」と、 「日本語教育法の研究」を私の生涯学習のテーマとする決心をした。
三十数年間国語を教え、外国旅行の好きな私にふさわしいテーマである。
だが外国語の不得手な私は日本語のみで外国人に日本語を教えるわけである。そこで中国の大学に行き、日本語の全然話せない中文科の先生から中国語を学びながら教授法を観察し、それを日本語の教育に適用しようと考えた。
幸い中国短期留学は観光より費用も割安で、その上放課後や週末を利用し文化施設、名所、古跡を見学すれば実際の中国語会話の練習もできる、滞在型の旅行が楽しめる。一石五鳥だ。もっと早くこのことに気がつけばよかったと思いました。
初めての短期留学先は北京市立華僑学生補習学校で、世界各地に住む華僑の子弟に普通語である北京語を教えている学校でした。在外華僑の寄付で設立されたとのことだ。夏休中は学生が帰省し校舎・寮・教員が空いている期間それを利用し短期講習を開講するわけです。同行者は画家、高校教員、東洋研究のイギリス人等計七名でした。
学校には私たちより先に世界各地から高校在学中の若者が学習していた。神戸・横浜の中華学校の生徒も先生の引率でこの講習に参加しておりました。
第二回目は昨年、日中留学協会に登録し成都の四川大学の中国語講習を受講した。中国教育部直轄の全国重点大学に指定されている大学での、ベテラン教授の指導は大いに参考となった。
この大学には外文系に日文科があり、私が高校国語教員であることを知って、ヒヤリング教材の作成依頼があったので喜んで引受けた。そんな縁で休暇中の日文科学生も夜になると私の宿舎に集まるようになり、毎晩が私の日本語教育法の実習時間となった。
宿舎は四階建の外専楼で私の真上の二階には長坂昭雄氏が住んでいる。四川省と山梨県は姉妹都市という縁で、山梨県立高校の現職教諭である氏は、交換教師として大学で日本語を教えており、丁度休暇中の旅行から帰宅したところだったので、数日間ではあったがいろいろ指導・助言をいただいた。
帰国数日前には「人民中国」編集部にいた進藤昭氏が北京より着任し、成都は初めてとのことなので買物かたがた街を案内した。毎升二角四分(日本円で二十円余り)の生ビールを一諸に飲んだ故か大いに意気投合した。図々しいとは思ったが飲んだ勢いで「二年後に先生がもし辞任する気がおきた際は是非私の推せんを……」とお願したところ快諾を得た。お互いビールのなせる業であるからこの場限りの話になるかも知れないが、この事は今後の私の学習の励みになることは確かだ。
本年七月下旬第三回目は雲南民族学院に留学することになっているので、帰途に成都を訪れ氏に再会したいと思っている。
中国の話が続いたが国内の学習の機会としては、本年六月に土・日を利用し国際日本語普及協会の公開講座を受講した。また東京には外国人対象の日本語学校が沢山あるので、教員の特権を活かし機会あるごとに学校訪門して、現役の日本語教師の先生方の話を聞くことを心掛けている。
また外語大、早大、上智、東海大等大学の先生方も訪ねたいと思っているが、更に努力し学習結果に少し自信がついてからと思っている。まだまだ身体に自信があるので、来年三月退職後こそ本格的「生涯学習」のスタートである。県内で同じようなことを考えている先生方、お互に情報を交換しながら学習したり、海外旅行を楽しみませんか。
(県立福島商業高等学校教諭)