教育福島0105号(1985年(S60)10月)-025page
スズメの学校
郡司 庄平
教職に就いて二十八年になる。生徒に自慢できるのは、三十六年間書き綴った日記帳のことぐらい。もはや「天命を知る」べき齢を迎えつつあるというのに、いまだ惑うことの多い日々を重ねているわが身の至らなさ。そうした中にも、教師として立つ身に心の揺らぐ日や、教師であるがゆえの至福に酔った時間もあったことになる。
−−教員になりたてのころ、スキー好きの生徒がいた。土曜というと無断で早退し、山に入ってしまう。 「担任の言うことがきけないならやめろ!」の禁句のお返しは「やめる!」の買い言葉だった。再三の慰留も通ぜずに彼は去った。教師としての力量不足を恥じながら、長いこと心の重霧は晴れずにいた。……その後十年ほどして、彼の同級で山岳部仲間の集う酒席に招かれた。その席で彼と再会。無言のうちに、一盃の酒が互いの若さを許し合い積年のわだかまりも霧散した。あの日の私は、教え子たちの計らいに頭の下がる思いをしながら、当時の自分に、もう少し包容力ありせばとの悔いが強く残ったことであった。
−−近年では、かなりの精力をそがれた生徒もいた。パンチパーマのデナ(額)剃り族で、「謹慎解除」即日に夜遊びする始末。本人や母を信じて握りつぶした事件もあったのに、あろうことか、明日卒業という日に女友達を乗せた乗用車で横転事故。幸いけがはなく、小生の手渡す色紙をにこやかに受けとって卒業していった。事件の発覚後、拙宅に届いた菓子折は宅急便に乗せざるを得なかった。「本来なら腐ったまんじゅうでも口にするが、……当人の結婚の日まで口はきかぬ」とのつらい添え書きをしなければ通じない思いの親子であった。その後、転職との風の便りで案じているところに突然の電話で結婚する話。「今になってわかった。是非に」とその母。当時の指導部長と二人招かれた折の酒の味が格別だったことは言うまでもない。
−−この生徒の組には、もう一つの戦かいがある。卒業記念のアルバムが二冊残っているからだ。送ってやるのはたやすいが、それをせずにいる。子どもの名前の相談や教生開始の電話をくれた生徒もあるが、大半はナシのつぶて。これが時代なのだとは思いつつもここで妥協はしたくない。希薄化しつつある人間関係への抵抗かもしれぬ。精神主義で生徒を律することの難かしい時代になってきたことも承知だが、「ならぬことはならぬ」の厳しさだけは崩したくない。父性失権のモラトリアム人間漸増の時代に、父権の代役を演じようとしているのかもしれぬ。人の絆の乾燥化を象徴したようなアルバムを複雑な思いで見つめながら、「ダレが生徒カ先生カ」の、生徒にただ同調、迎合するだけの兄弟的教師でなく、むしろこういう時代だからこそ“スズメの学校”的教師たらんとすることが、自分の「天命」なのではないのか……そんな思いにとらわれ出している昨今の私である。
(県立梁川高等学校教諭)
「よくきらった」
稲田 正三
国道三百五十二号線を南西に進み、高山植物の宝庫である会津駒ケ岳を眺望できる伊南川の急流にさしかかると「よくきらった」と書かれた大きなアーチが目に入ります。日光国立公園尾瀬地区の入口、平家の落人部落と言われる秘境檜枝岐村の玄関です。
海抜千メートル近い高地にあるこの村は、約半年が長い冬であり、残りの半年に春、夏、秋があるといっても過言ではないでしょう。それ故、この短い半年間に自然と村人は生への躍動を続けるのです。
村の春は雪どけとともに、村の裏山一面が福寿草の黄色の花弁とぶなの若芽が春の訪れを告げます。この頃になると村の四方八方から「よくきらった」の挨拶がわりの言葉が聞こえます。尾瀬の入口に書かれた文字と同じ言葉です。村の春はこのように美しい自然と素朴な暖かな人間味のある言葉で始まります。
夏になると、朝もやに煙る村内を、「夏が来れば思い出す………」の夏の思い出の曲が流れ出し、他県ナンバーのマイカーと大型観光バスが尾瀬をめざして出発していきます。尾瀬街道途中のキリンテ(地名)のキャンプ場には、色とりどりのテントの花が咲き、夜ともなれば、若者も、家族連れも、そして村人も心を一つにして、夏の夜の星を眺め、キャンプファイアを囲んで心を和ませ友情を深めます。ここにも「よくきらった」の言葉が生きてい