教育福島0105号(1985年(S60)10月)-027page
山行雑感
野地 巧
近年、「登はん」と言っていいほどの山行とは、大分ごぶさたしている。
若い時分、これといった確たる理由があったわけでもないのに、いつの間にか山の魅力にひかれ、山のとりこになってしまっていた。
当時、親しい山の仲間がいなかったわけではないが、常に行動を共にできる立場の仲間がいなかったせいもあって、一人での山行が意外に多かった。
磐梯、吾妻、安達太良から歩きはじめて、飯豊、朝日、会津の山々、尾瀬、日光連山、上州、上越、北ア、南アと次第に足をのばし、自分の足跡をルートとその頂きに残すことに、無上の喜びを感じたものである。
やがて、岩場にとりつかれ、冬山にも足を運ぶようになったのは、二十代も半ばを過ぎたころのことである。
とりわけ、アルプスの山々にも劣らない岩場を抱き、豊富な残雪をつけた谷川岳の個性は強烈であった。中でもマチガ沢、幽の沢をはじめ、一の倉沢、◆壁、滝沢スラブ、衝立岩南稜などは最も思い出の深い岩壁である。
そうすることがさだめのように、早朝の幽暗とした一の倉出合いで、奥深くそそり立つ岩壁を仰いだのも、忘れがたい青春の思い出である。
冬山での不時のビバークに備えて、真冬でもセーターを着ず、ほとんど寝巻に毛布だけで夜を過したものであるが、岩登りや冬山は、やはりひたむきな情熱とエネルギーを燃焼させる若者の舞台なのだと実感させられる。
五十代に足を踏み入れた現在では、このような山行からは、ほとんど遠ざかっていると言っていい。
時折のぞく書店で、「四十代からの山」「中高年の山」などという山岳書がやたらと目につくようになったのは皮肉と言うべきであろうか。
若い時分の、私と「山ぐるみ」をよく知っている知人から
「もう登れないだろう」
と、よく言われるが、まだそれほど自信をなくしたわけではない。
女房や、中学二年の長男、小学四年の二男をひき連れての「ファミリー登山」がほとんどのこのごろであるが、体力的には、すでに長男に追い抜かれ、引き離されるばかりである。かつて私が愛読した山岳書など書棚から引っぱり出し、読みあさりはじめている。
「息子に、岩登りと冬山だけは教えないで下さい」と女房に一本釘をさされているだけに、複雑な気持ちである。
しかし、あらゆる山のきびしい条件に対応できる登山技術と、人と山のほんとうのかかわり合いを知るようになるのは、まだまだ先のことである。
それまでは、何とかわが「ファミリーパーチー」のリーダーとして、君臨できそうである。
(岩瀬村立白江小学校教諭)
豊かさの中で
吉田 正耕
十年一昔と言うが、早いもので教職に就いて二士二年の歳月が流れた。現代社会は、私の少年時代と比べると科学文明の発達がめざましく、経済成長も目をみはるものがある。それに伴なって、その時代に生きる人間のものの見方・考え方にも変化が生じてくるのも当然のことである。
私たちが子どもたちを対象に話をするとき、自分の体験をもとに判断の基準を無意識に枠づけして是非を問うことが多い。
例えば、近頃の男子生徒の学生服は、ボンタンと言われるスタイルのものが流行しているようだが、私などにはどうしてもなじめない感が強い。しかし、私たちの中高時代にもそれなりの流行があり、指導の先生から注意を受けたものである。ここで大切なことは、流行や感覚、さらには常識やものの見方・考え方までも時代の推移とともに変化するということである。生徒理解の難しさがこのへんに穏されているように思える。
子どもたちの生活の学び方も変化している。私たちは、毎日の生活の中からそのあり方を学ぶことができた。子どもでも家庭の中に仕事の分担を持ち、親からいちいち教えられなくても仕事の苦労を身をもって味わうことができた。だから、汗して働く親の姿を見れば心からの感謝の念を持つことができたのである。また、物資不足の中でものの大切さも十分味わった。身近な生活の中に手作業が多く、手作りがあり創意工夫の機会も数多く体験できた。
それに比べて今の子どもたちはどう