教育福島0105号(1985年(S60)10月)-028page

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であろうか。既製品と電化製品に取り囲まれ、製作過程や原理も知らないパソコンゲームで遊んでいる。これが一概に悪いと言うのではないが、このような進んだ時代に育った子どもたちは、それなりの感覚「ものの見方・考え方」を身につけているということを理解してやらなければならないと思う。

 

子どもが生活そのものから学ぶことができなくなった現代では、大人が意図的に、家庭でも、学校でも、社会でもその道理を教えていかなければならなくなっている。ところが、そこまで意識していない大人たちは、子どもたちにやらせなくてはならないことを自分たちがとって代わってやってしまったり、教えの手抜きをしてしまったりしている。そして、時が過ぎ、自分の感覚で子どもを見、なぜこのぐらいのことがわからないのか、できないのかとこぼしている。学ぶ機会のなかった子どもたちがわかるはずもできるはずもなく、大人が自分の感覚だけで、これぐらいのことは……と考えるところにまちがいがあるように思える。「必要の中で芽ばえる生活の知恵と向上心・充足の中で失う意欲と人間性」……

 

今、迷っているのは大人たちで、その被害者は子どもたちであると思えてならないのである。

(表郷村立表郷中学校教諭)

 

文房四宝

畠山 みつ子

 

ており、深い愛着を抱いて長く大切にとり扱おうという気持ちは育ちにくい。

 

近頃、生徒の筆記用具を見て驚かされることが多い。思わず口に入れたくなるような香料入りの消しゴム類、ままごとの注射器かと見まちがうようなシャープペン、イラスト入りのカラフルなノート類、という具合で枚挙に暇がない。このような筆記具には、目新しさに心がうばわれることがあっても、元来が使い捨て用に作られており、深い愛着を抱いて長く大切にとり扱おうという気持ちは育ちにくい。

 

古来、筆記具の主役であった筆・墨・硯・紙を人々が“文房四宝”と呼んで、限りない愛情を注いできた。このことを思うにつけても、筆記具の様変わりと、その中で失いつつあるものの重さを考えずにはおれない気持ちになる。

硯は、文房四宝の中で最も寿命が長く、常に座右に置いて愛用したいものとされてきた。名硯と呼ばれるものは、それを眺めるだけで心がおちついてくる鎮静剤的効果すらもっている。

その硯に身をゆだね、己が身をすりへらし命尽きる運命をもつ墨。“人、墨を磨さずして、墨、人を磨す”という言葉には、人間の墨に寄せる限りない愛惜の情と、名墨を惜しむあまりの人生のはかなさへの嘆きすら感じさせられるのである。

この硯と墨との絶妙なコンビで生み出された墨汁を体に含ませ、書く、という行為に身をまかせる筆。“弘法、筆を選ばず”という諺は、“字のうまい人は、どんな書きにくい筆ででもりっぱな字を書くものだ”という例に引用される。ただし、空海が、在唐中に見聞した製筆法によって筆を作らせ、嵯峨天皇に献上していることはよく知られているところである。良筆に関心を払わない書き手などいないものであるということは、心得るべきことであろう。

紙は、長い年月にわたり、貴重品として扱われてきた。今日ほど紙が大量生産され、種類も多様化している時代はないのであるが、豊かさの中で紙を惜しむ気持ちがますます希薄になっていることが、私には気掛りであり、おそろしくさえも思われるのである。

ある有名な書家が、生前口癖のように、『清浄無垢な白い紙はそれ自身が美しい。書く行為が紙を汚す行為にならないよう、祈る気持で筆を執っている』と言っていた。この言葉を私自身肝に銘じている。そして、より多くの人々に伝えたいと願っているのだが…。

 

文房四宝、これらはどれをとっても自然の産物を原料としており、四季の微妙な気配を敏感に感じとる熟練を必要とし、手間・ひまのかかる手作り品である。作る人々の手間・ひまをかけた心が、使う人々に伝わらないはずがないと私は思う。

そしてまた、この文房四宝は、それぞれが持ち味を発揮しながら、出会いによってお互いを生かし合い、“書く”という行為の中でお互いが融合しつつ、その使命を完全に果たすのである。

私は、このような特質を有する文房四宝をいつまでも愛用したいと願っている。そして、これらの品々に込められた先人の深い思いを、“書”を通して生徒に伝えたいという思いを近頃は一層強くしているのである。

(県立浪江高等学校教諭)

 

 

 

 

 


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