教育福島0106号(1985年(S60)11月)-019page

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土坑等が検出され、縄文式土器や石器など多数出土した。

2、相馬開発地内遺跡群(相馬市・新地町)

相馬地域開発に伴う武井農業団地内所在遺跡の発掘調査で、奈良・平安時代の所産と考えられる製鉄炉や関連の木炭窯などが検出されている。

製鉄炉は、向田F遺跡から良好な状態で検出された。炉底部分で、長さ一・八メートル、幅六十センチを測る。また、付近から木炭窯が検出され、さらに、多量の鉄さいが出土した。

3、母畑地区・兎喰遺跡(玉川村)

国営総合農地開発母畑地区事業に伴い記録保存のための調査である。

この遺跡では、丘陵尾根筋上に、長楕円形あるいは長方形プランの土坑(長軸一・七〜二メートル、幅一・二メートル)が、十六基確認されている。これらの土坑の内八基からは、ロクロ土師器杯が完形の状態で一枚あるいは二枚ずつ発見されている。これらの土坑は、平安時代の墓坑としての性格が考えられ、埋葬にあたって生前使用されていた杯を副葬したものと推測される。また、他のものに比べて小規模な土坑(長軸約一メートル、幅約八十センチメートル)も一基確認され、この底面から口径十センチメートルほどの小さな杯が発見された。この土坑は、子どもの墓坑と考えられる。

4、会津農水事業・下谷ケ地平C遺跡(会津高田町)

国営会津農業水利事業新宮川ダム建設に伴い、水没地区内遺跡の記録保存のための調査である。

この遺跡では、河岸段丘上に縄文時代晩期終末の竪穴住居跡二棟、貯蔵穴二五基、土器焼成坑一基、弥生時代の墓坑と思われるもの五基が確認されている。この住居跡二棟は、段丘の末端部に並んで確認され、貯蔵穴と思われる。土坑は、十〜十五メートル離れた段丘中央寄りに密集して確認されている。住居跡は、長径約五メートルの楕円形をしており、中央に石組炉をもっている。住居跡床面には、多量の縄文土器片や石器とともに、堆積土に混ってクルミ、栗、トチなどの堅果類や栽培植物である「エゴマ=ジュウネン」と思われる炭化種子が発見されている。さらに、住居跡から十メートルほど離れた円形の土坑(直径約一メートル、深さ約八十センチメートル)の底面からは、二十センチメートルの厚さに貯蔵された状態で、炭化したトチの実が多量に発見されている。この調査結果は、縄文時代晩期終末における集落の構造や生業形態を知る手がかりになるものと思われる。

5、久川城跡堂平地区遺跡(伊南村)伊南村教委が発掘主体の調査である。久川城は、河原田盛次が天正十七年(一五八九)に築城し慶長十六年(一六一一)に廃城になる戦国時代から近世初頭に機能した山城で、見事な縄張りが遺存し、県指定史跡となっている。今回の調査は、城下に存したと見られる集落跡の検出を目的とした。その結果、石塁や石積遺構、石囲い遺構など城下の様相を示す遺構が検出された。また、その下層から縄文時代中期から後期にかけての遺構や遺物が多く検出された。

6、武ノ内遺跡(霊山町)

ほ場整備事業に伴う発掘調査で、霊山町教委が発掘調査の主体である。

武ノ内遺跡は伊達郡霊山町大字泉原字武ノ内の広瀬川の河岸段丘上に立地している縄文時代中期〜弥生時代の遺跡である。この遺跡は昨年も発掘調査が行なわれ、縄文時代後期〜弥生時代の集石遺構、土坑群などが検出されている。

本年度の調査では、石組遺構の下より縄文時代中期後半の複式炉を有する住居跡、縄文時代後期の住居跡などが検出されている。遺物としては、縄文時代中期〜晩期の土器、石器の他に土偶、小型異形土器、環状石斧など他であまり例のないものが出土しており、今後の遺物整理、報告書の刊行が期待される遺跡である。

7、窪田遺跡(只見町)

ほ場整備事業に伴う発掘調査で、只見町教委が発掘主体である。

窪田遺跡は、南会津郡只見町大字大倉字窪田の伊南川の河岸段丘上に立地している。

遺跡の規模は約二千平方メートルであり、発掘調査の結果、縄文時代後期の竪穴住居二棟、同晩期三棟、弥生時代中期の再葬墓、竪穴住居二棟、縄文時代後期〜晩期の土坑群などが検出されている。遺物では四面に顔のある人面土器、縄文時代晩期後半の頸飾り一組分と考えられる小玉が百七十二個同一土坑から出土するなど極めてめずらしいものがある。

この調査結果をふまえ、只見町、只見町教委の努力により遺跡の現状保存が決定し、今後活用される予定である。

 

下谷ケ地平の遺跡・住居跡

下谷ケ地平の遺跡・住居跡

 

 

 

 

 


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