教育福島0106号(1985年(S60)11月)-030page
しかし、このころは、運動が好きだからやっていた程度であって、体育を一生の仕事としてやろうなどと考えてもいなかった。
女子青年会の、バレーボールチームを指導して、県大会で優勝、全国大会に出場した年、小学校の校長先生にすすめられて、教師として出発した。
そして、三十一年、いつも体育主任であった。
この道に入ってみると、その仕事がいかにもやりがいがあり、素晴しい仕事であるということがよく分り、これに魅力を感ずるようになった。
今年の四月より、文部省指定「体力つくり」推進校の滑津小学校に勤務することになった。
三年継続研究の、一年目のスタートである。主題をどう設定し、どのようにして体力を高めたらよいのか、先進校の模倣でない方法で、子どもたちの体力を高めることはできないだろうかと考え続けた。
しかし、二十年も前からはじまった全国の、体力つくり推進校では考えられる、あらゆることを実践している。先生方と、なんども協議し、主題を『未来をひらく、心身ともにたくましい子どもの育成』とし、サブテーマに、『すすんで体力つくりにはげむ子ども』とした。
たくましく未来に生きる、子どもの育成は、現代の学校に課せられた課題である。
そこで、体力つくりをとおして、子どもたちが、現在はもちろん、生涯にわたって、運動に親しみ、健康で明るく新しい社会を創造し、楽しい豊かな生活を営む能力と態度を身につけた、心身ともにたくましい、子どもの育成を願って主題を設定した。
そして、週一時間の「羽黒タイム」や、業間体育では、ジャズ体操を中心に実施し、柔軟で、パワーのある筋機能を向上させ、心のリラクゼーションをはかろうと考えた。
校内実技研修会では、ジャズ体操に全職員で挑戦した。その結果、全身運動を、より正確に、大きく、美しく行うためには、からだの各部位がよく動き、全体の動きに調和していなければならないことを知った。
ジャズ体操のねらいである、「自分のからだを、自分で思うように動かすことができるようになる」に、ほど遠いことに驚き、子どもたちと、音楽に合わせて、腰を振り、脚を上げ、各部位を柔軟にしょうとがんばっている。
那須の山々に夕焼雲が流れるころ、今日の体力つくりのしめくくりに、羽黒の丘にある学校から、稲が黄金に実る農道を、あせかき地蔵までの往復二キロメートルを五・六年生全員で走る。
教師と子ども、子ども同志が美しい深い心のきずなによって結ばれ、自己のペースで、励まし合いながら。そんなとき、私は、体力つくりも「人間つくり」だとしみじみ思う。
人間がまさに「人間である」ためには、からだと、心のつり合いのとれた成長がなければならない。からだの健康だけでなく、心の健康にも留意して「心身ともに健康な人間つくり」をめざしこれからも努力したい。
(中島村立滑津小学校教諭)
忙中模索
田部絵津香
この四月、新採用となり、教科の外に一学年の学級を持つことになった。
教職に就いて痛感したことは、そのこなさなければならない仕事のなんと多いことかということだ。テンポの遅い私にとって、それは相当の苦痛で、体が三つくらいあればと思うことがよくある。着任したてのころは、その忙しさそのものに充実感を覚える毎日であったが、さすが五月の連休も過ぎるころになると、身を粉にしたわりに、仕事のできは稚拙で、生徒も思うように動いてくれないというジレンマに、深く落ち込むようになった。自己憐憫の心情が私を支配し、朝起きても学校に行きたくない、通勤途中に信号で止まるとうれしいという、全く情ない状態に陥ってしまったのだ。いつの間にか自分だけのことを考えるようになっていた。仕事を手際よく片付けて早く学校から解放されたい、自分の時間を持ちたい。しかし、自分の時間と言ってもそれは、傷めた翼を愛撫するだけの惨めな時間に過ぎなかった。夏休みはもったいないことに、自分を甘やかすそんなことに時間を費やしてしまった。
安住の夏休みも終わって新学期が始まり、再び水面にもがく魚のような日々を送っていた時、相談を持ちかけた友人が、その先輩の話として、私を改心させ奮起させる話をしてくれた。
その先輩は在職四年目で、今でこそ余裕を見せているが、やはり一年目は苦渋の日々を送っていたそうだ。仕事の要領は得ない、生徒は新米だと甘く見て言うことを聞かない。今の私と全く同じである。教師ならこれはだれもが通る道なのかもしれない。その先輩がそんな状況を打開できたのは、「誠実さ」を捨てなかったからだと友人は言うのである。寝る時間を削って生徒