教育福島0107号(1985年(S60)12月)-023page
随想ずいそう
夢幻泡影
引地剣爾
障害児教育に携わっていると、様々な子どもたちとの出会いや別れがあります。そんな中で、私にとってあまりにも劇的な少年がいます。
その少年は、進行性筋ジストロフィーという恐しい難病を背負っていました。私が訪問教育で担当した時、すでに彼の体はやせ細り、生活はすべて寝たきりで、大小便はもちろん食事も家人の全面介護を受けていました。かすかに手の指と顎が自力で動かせる程度で、寝返りどころか自分の顔に蚊が止ってさえも追い払えない有様でした。
進行性疾患特有の心理状態からか、時に排他的となり、時に自棄的な言動が随所に目立っていました。
そんな彼の宿命的な肉体条件を、彼の精神力で補い、残存機能を十分活用させ、何とか生きる喜びを味わわせなければならない私の任務に私は悩みました。毎回毎回、大きなカバンに教材をぎっしり詰め込み、バスに乗っての訪問は大変なものでした。
ある時、彼に彼の最もしてみたいことを経験させようと家人とも相談し、かねてから彼の憧れていたスカイラインに行くことにしました。車の助手席に彼の体を紐でしばり、足元には台を置いて固定し、首は私が後ろから支えてのドライブでした。車が揺れる度に体の痛みから顔をしかめ、目をパチパチさせ、浄土平に着くころは、疲労からか声も出せないほどでした。
しかし、帰ってから秋色鮮やかだったスカイラインの情景や、初めて見た木になっている林檎のこと、市内の夜景などはまるで宝石のようだったとそれこそ宝石のように目を輝かせて話すのでした。こんな華やいだ彼を見たのはその時が初めてでした。
またある時、二本松の夜の提灯祭りが見たいと言うのでバギー車を借りてきて、彼の体を毛布に包んで乗せ、後ろから押して見学に出かけました。雑踏にもまれながら太鼓台を乗せた屋台のすぐ後をついて歩きました。夜空に揺れ動く無数の提灯と太鼓の響きに酔いしれたのか、普段青ざめている彼の頬は幾分紅潮し、心なしか動かないはずの体を太鼓に合わせて揺すっているような鼓動すら私には伝わってくるのでした。
帰って来て床に就かせた彼の口から「センセイ、オレ、ヨカッター」としみじみ言われた時、私は初めてこの少年の教師となった思いがしました。
しかし、そんな思い出もつかの間、過酷にも運命の波は刻々と彼に迫り、三学期に入るや病状は日増しに悪化しついに三月末、彼は永眠しました。
最後の訪問の時、「センセイ、エンマサマッテ、ホントニイルノ?」と何度も何度もきかれました。確かに死への覚悟はあったようです。私は涙をこらえ細い細い彼の指を握りしめてやるのがやっとでした。
(県立盲学校教諭)
母の愛を心に
斎藤まち子
十六年前、短大を出てすぐに新設の保育所に就職しました。保母は三人、みんな同年齢でした。夜遅くまで、保育参考書を片手に、夢中になって語り合ったことがなつかしく思いおこされます。
三年たって、またまた、新設の幼稚園への転勤の話がありました。ようやく周りがみえはじめ、軌道にのった保育所からの異動の不安を、病床にあった父に話しました。父の「公務員は、自分の都合で仕事をしているのではない、命によって全力を尽くさなければならない」の言葉に励まされ転勤いたしました。十日ばかりの苦しかった準備期間の後、開園し、とどこおりなく終えた入園式の感動を父に話しました。その時の弱々しいながら温かさに満ちたまなざしが思いおこされます。それから間もなく、安心したかのように他