教育福島0107号(1985年(S60)12月)-026page

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気にせずに、先生の人間くささを出して、本音の部分でぶつかっていけばいいんじゃないのかな………」。

 

この言葉で、私の悩みはだいぶ解消された。

男子の寮長であるM君が、進路の悩みを相談しにきた時は、彼といっしょに風呂に入り、自分の経験を交えながら、とことん話し合った。サッカー部のW君が、試合に出してもらえない苦しさをもらした時には、彼の布団の横に寝そべって話を聞いた。また、ソフト部のMさんには、部員の性格などを階段に腰かけながら、教えてもらったりした。なにも特別なことができるわけではない。だからこそ、普通のふれあいの中で、少しずつ子どもたちの心に溶けこんでいければと考えたのである。

同じ場所で生活し、同じ釜の飯を食う。これはたいへんな強みだ。私は、クラス担任もさせてもらっているが、そこでの生徒とのふれあい以上に勉強になることが多い。もちろん、うまくいくことばかりではない。だが、生徒とのつきあいは、根くらべである。生徒が心を開くまで、決してあきらめてはならないと考えている。

今は「おかえりなさい」が楽しみになっている。

(古殿町立古殿中学校教諭)

 

今、分校では、

東条 誠

 

村外の高校への通学が可能なのは、辛うじて本校である富岡高校のみである。

 

私の勤務する富岡高校川内分校は、南北に伸びる阿武隈山地の双葉郡川内村にある。人口およそ四千人、詩人草野心平氏ゆかりの天山文庫、天然記念物「もりあおがえる」の生息地として知られた山村である。交通の便は極めて悪く、村外の高校への通学が可能なのは、辛うじて本校である富岡高校のみである。

川内分校は、昭和四十年村立の川内高校から県に移管になり、村民の暖かい御支援により順調に発展してきました。今、地域の分校への期待がより高まりつつあることは、大きな喜びであります。

私は、昭和四十一年に縁があって、この分校に奉職させていただきました。今回で二度目の勤務である。当時は、昼間の定時制課程であり、生徒数も少なく、先生方も数人で体育館もグランドもありませんでした。いかに多くの生徒を集めるかが、大きな課題でありました。それには、全日制に昇格させ、村外に出る中学生を分校に引き寄せる以外にないと、村の全家庭対象にアンケート調査をしたり、県への陳情書つくりなど慣れない仕事に意欲を燃やしたことが思い出されます。あれから二十年の時が流れ、各地にありました高校の分校も、その役目を終え、姿を消して行きました。こんな流れの中でも、川内分校は、地域に根をしっかりと張り続けて来たのです。

昭和五十八年二月には新校舎が完成しました。生徒数百十二名の小規模校ではあるが、分校長を中心に若い情熱ある先生方の指導のもと、分校というイメージからくる偏見をなくし、いかにして生徒たちに自信をつけさせるか、学習活動や部活動に、連日遅くまで指導に当たる先生方の姿を見るに、どこの学校にも負けない意気を感じるのです。大規模校から見れば恵まれない点もありますが、小規模だからこそやれる、出来る良い面が多く見られます。家族的で、きめ細かな行き届いた指導も生活指導も、徹底され特に問題もない。新入生の多くが、この分校に入り良かったと感想を述べているのがとても嬉しい。

今年も先生と生徒が、一体となった活動の中から多くの成果を挙げつつあります。運動部は三つの部しかありませんが、テニス部は、三年前から校舎近くの木戸川河川改修工事のためコートがなく、十分な練習が出来ずにおりました。今年に入り、顧問の先生、生徒それに村の方々の協力で、手造りのコートを仮設、みごとインターハイ地区予選で男子の団体優勝を勝ち取りました。また野球部は、夏の県大会で磐城と対戦、互角の好試合を展開し感動的であった。小名浜球場で声の限り応援し歌った分校の校歌、頬に流れる涙がありました。これが教育なのだと熱くなる心を押え、一人つぶやいた。

試合は惜しくも一点差で負けはしたが、あの感動は忘れることは出来ない。

やれば出来ることを、多くの生徒たちが学んだ。今では運動部に所属し活動している生徒の数が、在籍の何と七割を越えている。

 

木戸川の清き流れ、美しい山々、人情味ある村の人たち、俗化されない教育環境へ豊かな自然から生れるのか川内の生徒は実に素直で純朴である。若くて、活動的でそして明るい川内のこの学校が好きだ。今日もまた、可能性を求めて、小さな学校が大きく活動している。

(県立富岡高等学校川内分校教諭)

 

 

 

 

 


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