教育福島0107号(1985年(S60)12月)-027page

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発想の転換

永山親雄

 

る言葉であるが、どうしてどうして実行がむずかしく、苦労の種子でもある。

 

発想の転換−よく耳にする言葉であるが、どうしてどうして実行がむずかしく、苦労の種子でもある。

二十年にもなろうか。わが家を新築せんものと、友人の住まいをいくつか見せてもらったことがある。図面を書くことの好きな私で、友人たちの建築に当たっても、幾度となく相談を受けてきたのに、いざ自分のこととなるとうまくいかない。いろいろと思いをめぐらせて、十枚の余も平面図を書いてみるが、どうも最初の間取りが頭から離れないのである。大同小異、ついに会心の作が生まれぬままに建ったのが、実は今の住まいなのである。

その後、何の因果か、校長住宅や学校建築にしばしば出会うことになった。

そこで考えさせられたことがある。設計家はそれが仕事とはいえ、全く違ったものを設計し、造っていくのだから恐れ入る。どのようにして“発想の転換”をしているのだろうと、見えざる努力はさておき、不思議にさえ思い、敬意をはらっている。

毎日の仕事の中で、教職のプロとして、転換をしなくてはならないこと、あるいは、転換を要求されることがあるわけだが、思うようにできないでいる。

ところが、このように進めたらどうだろう、この点についてはこう考えては……となり、何とかうまく済んで、転換とまではいかなくても、少しずついろいろな角度からの話が出されて、よいものにできあがっているので、そう深く考えもしないままに過ぎてしまっているのである。一人立ちできないプロなどいないはずであるが、なんともありがたい気持ちとすまない気持ちとが同居していて、すっきりとしない。

転換を計るためには、それなりの素地がなければできないと思う。その素地を築く努力や苦労もしないで、すばらしいものを望むのは所詮無理なことである。思うに、自分の発想を、金科玉条とまでは思っていなくとも、自分の殻を打ち破ることができないか、それとも忙しさを盾に、その努力を怠り、集団の中に甘えているのかもしれない。

 

やがて忘年会がやってくる。

いつの年であったか、その席で『すべてを忘れ、この期に頭の中を0(ゼロ)にする努力をしてみてはどうだろう』と言ったことを覚えている。『ゼロにしなければ、新たな発想は生まれてこないのではないか……』と、実は無理ではあるが、自分に言い聞かせたかったからである。

今年はその時期に、なにが浮かんでくるか、なにを自分に言い聞かせるか、いつものことながら、楽しみと不安とが錯綜してくるのである。

 

(棚倉町立棚倉中学校長)

信じたい子どもの心

渋佐多恵子

 

書くね」と一言話していった恥ずかしそうな彼の笑顔が脳裏に浮かびました。

 

「先生、おれガキだったなあ」A君から一通の封書が届きました。整然と並んだ横書きの文字に、ユーモアを交じえたカット。高校入試の合格と近況を知らせる二枚の明るい手紙でした。冒頭の文は その手紙の初めに、書き込まれていたのです。何日か前に私の家の前を通りかかったとき、「手紙書くね」と一言話していった恥ずかしそうな彼の笑顔が脳裏に浮かびました。

 

当時小学三年生であったA君を担任していたその年、私は育児のために、一年間の育児休業をとりました。

「一生の間で一番大切な一年間。せめてその期間だけでも母親業に専念したい」と考えたからです。

ところが、そんな気持ちなどクラスの子どもたちが知るよしもありません。その上不幸にも、一年の間に補充の先生が三人も変わってしまったのです。

育児休業が終わり、母親から先生にもどった私を待っていたのは、一人の男の子の反抗でした。

「お前なんか、帰れ」

「一年間もおれたちをほったらかしにして」

指名しても答えない。一緒に活動をしない。かといって、無視されればよけい反抗的になってくるのでした。

 

私は待ちました。その子の心が和むのを。たとえ、返事が返って来なくても、話しかけてあげました。時には、両手を握って、私の心を伝えました。「A君が、先生を嫌いでもいいよ。先生は、A君が好き。嫌いにならないよ」

いつも、笑顔を返すことを心がけながら、信じていました。温かい愛で包んでやれば、かたくなな心もいつの日か解けることを願って……。

 

 

 


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