教育福島0107号(1985年(S60)12月)-028page

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しかし、積もり積もった寂しさやいらだちが、やがて理由のない反抗に変わり、自分自身でコントロールできなくなってしまったのかもしれません。彼の心(手紙でも語ってはくれませんでした)は、私の願いをよそに、なかなか開こうとはしませんでした。

 

担任から外れても、私は声をかけ続けました。「おはよう」「さようなら」「元気?」「がんばって走ってる?」初めに笑顔が返され、次にぼそっと小さな声が返ってくるようになりました。ようやく冷たい氷が溶け始めた感じです。しかし、その後彼も卒業し、会う機会もなくなってしまいました。

 

あれからどのくらいの月日が流れたでしょうか。ある高校を受験した彼は、一回りも二回りも大きく成長して、私にすばらしい言葉を贈ってくれたのです。

「先生、おれガキだったなあ」

その一言は、私の長い間の肩の荷を下ろしてくれると同時に、改めて、大切なことを教えてくれました。

「教育は愛であり、忍耐である」と。

(飯舘村立臼石小学校教諭)

 

修学旅行雑感

 

修学旅行雑感

小豆畑毅

 

今年は二学年の担任なので、四年ぶりの修学旅行を味わってきた。

 

今年は二学年の担任なので、四年ぶりの修学旅行を味わってきた。

 

初日は東北・東海道新幹線を乗り継いで大阪へ着き、さらにバスで高野山に登った。台風二十号の余波も治まった二日目は、金剛峯寺や奥の院を巡拝した。生徒は勿論引率の我々教員も初めての地なので、「どんな所か」という関心があったが、高野山の仏教文化と今なお続く大師信仰には圧倒される思いだった。特に豊臣秀次が切腹させられた金剛峯寺主殿の柳の間と、奥の院に至る参道両側の各大名家の五輪塔群に興味をそそられた。高野山には藤原清衡が平泉中尊寺に献納した紺紙金銀字一切経の大部分が伝存している。秀次が中尊寺から奪ったものである。秀吉への命乞いに高野山を頼った秀次は、この経典を携えて登って来たのだろうか。

 

高野山からは奈良に下り、夕方まで東大寺境内を見学した。三日目は薬師寺と法隆寺を拝観して、午後宇治平等院を経て京都市内に入り、清水寺と平安神宮を参拝した。奈良公園に来る度に思うことは、お定まりの見学コースでは興福寺の国宝館も、東大寺戒壇院と法華堂の天平仏も見学できないということである。もっともそんなことは我々教員、特に私などの主に日本史を担当する者の御節介であって、生徒にとっては関心がないことかも知れない。そういえば、今年の法隆寺の見学時間は短かかった。大宝蔵殿などは入ったと思う間もなく出て来た感がある。

 

それに対して薬師寺は生徒にとってはおもしろかったらしい。一つは朱色も鮮かに再建された金堂と西塔の、いうならば外人好みの派手派手しさがカメラ向きだったし、例の案内僧の、毎日の授業では聞かれるはずもない話術を楽しんだからだ。歴史の年輪を示すくすんだ色の伽藍や、苔むした庭園に価値を見い出すのは、金色に輝く仏像を礼拝する東南アジア諸国の姿からみてもある時期の日本的な現象だったのかも知れない。だからといって古色蒼然たる奈良や京都を、生徒の目から遠ざけることが生徒の実態に適つた修学旅行であるとするのは、いささか早計ではないだろうか。・科学万博への興味と古寺巡礼は両立させなければならない。むしろこの双方共に関心を示さないことの方が、我々の当面する問題だと思う。

 

四日目は丸一日を使った班別見学日だった。私達はチェックポイントの一つとなった二条城に陣取ったが、拝観料を惜しんで庭園だけを見る班や代表だけが入園して他は外で待っている班があって驚ろかされた。とにかく京都の街を歩きに歩いたらしく、疲れて旅館に帰って来た。二条城でも昨日の平安神宮でも見られたことだが、外人(主に合衆国人)に対して生徒が積極的に話しかけていたのは−英語科教員の働きかけがあってのことだが−、これまでに見られなかった現象だった。

 

米を持って引率した最初の修学旅行と、今回の旅行とでは隔世の感がある。生徒の気質も興味も変った。家族での旅行がふえた為か修学旅行への期待もそれほど大きくはなくなった。旅館での大騒ぎも影を潜めた。全体にクールになって来ているのだろうか。しかし友達との交流を深め、さまざまな経験を積み、学ぶことは依然として続いている。教員の側も学ぶことが多岐にわたってある。だから色々な批判があっても、修学旅行はなくなりそうにもないのだろう。

(県立石川高等学校教諭)

 

 

 


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