教育福島0107号(1985年(S60)12月)-041page

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育的行事は元より市陸上記録会、地区駅伝大会などでがんばる姿は、迫力があり躍動感に満ちている。第二に、果敢に挑戦する勇気と闘志とを持っている。運動面に限らず、学習の場で議論を戦わせ、音楽祭で競い合う。失敗を恐れずにやりぬく敢闘精神が立派である。

次に、鹿児島県の先生方につい石は、個性的であり余裕があると感じた。各人各様に学芸や運動などの趣味を持たれ、公私ともに充実した生活をされている先生が多い様子である。ただ飽くまでも主観であるが、子どもに対する指示はやや多いように思う。鹿児島県と福島県の教師像に大きな違いはない。要は、教育に対するひたむきな情熱と常に自己研さんに励む根気と健康保持ではないだろうか。

私は、主に国語授業の改善に努めてきた。今、子どもたちは、自ら課題を決め進行し板書し解決を図る。過日、他学年の子どもが「まとまった学級」と日記で紹介してくれた。また、授業参観に来てくれた。子どもたちは、何でも前向きに努力する。二つの県に立派な子どもと親と先生方を持つ自分を幸せ者と感謝している。あと五ケ月、悔いのないよう緑の街で努力していきたい。

 

考えを深め合う六年生の授業風景

考えを深め合う六年生の授業風景

 

鹿児島県から本県へ

 

福島市立福島第一小学校教諭

濱田輝夫

豊かな自然の中で地域に学ぶ

 

ているという思いが「やれるだけの努力をしよう」という決意を新たにした。

 

昭和五十八年四月二日、新幹線で福島駅に降りた時、冠雪のある山々と頬をなでる風の冷たさに、鹿児島を離れて遠くへ来たのだという思いを深くした。福島についての知識と言えば、阿武隈川、知恵子抄、奥の細道、磐梯山、白虎隊などと、ごく断片的でむしろ無知に等しかった。今まで地図の上や文学や歌の世界でしか知らなかった福島の土地に、自分の足でしっかり立っているという思いが「やれるだけの努力をしよう」という決意を新たにした。

 

さて、鹿児島県の人口は福島県より少なく、百九十万人位、そのうち五十三万人が鹿児島市に集中している。次に人口の多い鹿屋市が十万人位である。福島県の場合は面積も広く、人口十万人以上の都市が福島市、郡山市、いわき市、会津若松市と四市もあり、それも、文教都市、経済都市、工業都市、観光都市と分散され、非常に理想的な行政県だと思う。

鹿児島県の教育についての一端を述べてみたい。前述のように鹿児島県は一市集中的であり、資源も乏しい土地なので、教育を受けさせることは財産という考えがある。また、昔から郷中教育(隣近所の青少年が相集まって互いに切磋琢磨して文を学び武を錬り、それぞれ志操を砥励したもの)で培われた教えがあり、「うそを言うな」「弱い者をいじめるな」「負けるな」(自分の弱い心に負けるなという意味も含まれている)を合言葉に朕の規範とし、士魂を培ってきた。最近では、進学熱.も福島に比べたら過当競争の感があり、中学生などは大半が進学塾に通っている現状である。

 

福島に来て八年ぶりに担任をして(前任校では七年間理科専科)現場の忙しさに目を見張った。時程表との関係(鹿児島では、四十五分間の休憩時間が給食後にあった)などで、子どもたちと遊んでやる時間も少なく、あせりを感じた。また、教育計画は綿密にたてられているのだが、週末やその他の提出物に追われて、初めのころは日曜、祭日も返上してやっと間に合うような状態で、あらためて自分の能力のなさを感じさせられた。

先生方の研修に取り組む態度には感心させられた。一人一人の先生が、自分の専門外のことでも自分のこととして取り組み、協力団結してやり遂げようとする姿勢……。校訓である「終始一誠意」の精神が、校長先生をはじめとしてみんなの先生方の中に根づいていると思った。

福島に来てありがたかったことの一つは、市小中学校長協議会主催、市教委共催による研修講座に参加させていただいたことである。年間十回、土曜日の午後二時から四時まで、学習指導、教育心理、生徒指導、教育法規などについて研修を深めることができた。

この講座で、星善吾指導主事から、昭和十八年、鹿児島県に一年間派遣された瓜生操訓導の一年間の日記を活字にした本を紹介され拝読した。戦時中の物の乏しい時代、単身赴任で鹿児島

 

 

 


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