教育福島0110号(1986年(S61)04月)-007page

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提言

われわれ日本人は、とかく外国人というと、良くも悪くも特別視して同じ人間というより違う人間として、その違いの方に力点を置いて考えたり接したりしているように思う。もちろんそれぞれの国や国民には特色があり、ナショナルがあってはじめてインターナショナルが成り立つのであるから、その違いを無視することはできない。しかしその違いは同じ人間という共通性のうえに立った違いであって、例えば絵画と音楽はいずれも美の表現としては同じであって、ただその表現形式が違うだけだ、というのと同様である。ナショナルのうえに成り立ってインターナショナルも、そこに人間という共通の基盤があってこそ成立するといわねばなるまい。

さらにこのことは、国や国民の違いは人間性活という同じ実体の表現形式の違いであるから、それは優劣の差ではなく同列の違いである、ということを意味している。もちろんある一つの観点だけからみれば、優劣の差ということもみとめられよう。例えば経済成長や国民所得というような点ではたしかに格差は存在する。だがそれがイコール豊かな人間性活や優れた人間性を意味するとは限らない。それに一つの面でだけ人間を評価することの誤りを、われわれは偏差値教育の弊害として痛感しているはずである。

そもそも相互関係を意味するインターは、上下関係ではなく横並びの関係を意味する。音楽と絵画はどちらが上だなどという議論は意味がないし、どんな生活様式がより優れているか、というようなことは一概に言えないことである。タテ社会といわれる日本では、物事を上下関係で、あるいは善悪で評価しがちであるが、国や国民の特色はそうでない横並びの違いであるということを、十分理解しなければならないと思う。ある国の伝統や文化の尊重ということも、その点をわきまえる必要がある。

そして、もしなんらかの点で優劣があったときには、劣った者を早く自分と同じところまで引き上げ、格姜を解消して同列の関係をつくり出すことが肝要である。そうした真にインターナショナルな関係をつくり出すことこそ、国際化といわれることの真髄ではあるまいか。これは人間同士の付き合いでも、国同士の付き合いでも同様である。

だから共通の立場に立たない競争はフェアーでないのであり、その意味で巨額の貿易黒字も「働き過ぎ」もアンフェアーとみなされ、自分さえ良ければという利己的な態度とうけとられてしまう。国益ということもぞうした観点から考えられねばならないであろう。

 

なかよく友だちと学校へ

なかよく友だちと学校へ

 

もつ女の子ブローニカ(左)、右は筆者の次女(当時小学校一年〜イギリスにて)

アメリカの国籍をもつ女の子ブローニカ(左)、右は筆者の次女(当時小学校一年〜イギリスにて)

 

 

 


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