教育福島0110号(1986年(S61)04月)-021page
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痛だ。いつ、反抗に転ずるか、わかったものではないだろう。それをさせないように四六時中、生徒にマンツウマンでつきまとうか。そうすれば、いじめもないだろう。しかし、これは事実上、不可能に属する。
根源約改革
臨教審は思考のフレームを、社会構造自体に向けるべきである。そこから、根源的解決策を見い出すべきであった。アメリカでは、勤め先を次々に変わる。だから「今、何ができるか」という現時点での能力が問われる。日本では、多くの場合、同じ会社に一生涯勤める。転職しないという前提があるから、今、何ができるか、ということでなく、長い間のうちに、組織に貢献できる素質が問われる。
社会構造が異なることで、教育機関も異なった機能を持つに至った。アメリカでは、即戦力を養う教育を目的とした。例えば、直ちにコンピュータを扱える能力である。日本では特別の能力でなく、なんでもこなすことのできる「素質」が重視された。素質が問題となる教育では、卒業試験より入学試験が適切である。かくて、日本では「素質」を問う試験が本命となり、アメリカの何ができるか、という「能力」教育と異なった発展をした。素質を問う限り、競争は下へ下へと移行した。最近では小学生、幼稚園にまで、この素質競争が移行している。
さて、この素質は、人間の持つあらゆる素質であることが望ましい。実際の官庁や企業では、数学的素養を必要とする設計部や、建築の構造力学に明るい人材を必要なら、総務課のように、細かい人情の機微に即したサービスに向いた人材も必要である。
素質は、大学入試の国語、外国語、数学など、五教科五科目ではかることが不可能である。そこに教育改革の最大の問題がある。一流の大学を出たからといって、必ずしも人間関係の良好な人材とは限らない。
面接試験に重点を置く、という会社が増えてきた。すべての会社では、採用での問題は、面接だと考えるようになってきた。なぜか。それは、日本の教育は、面接で試される「心」を除外していたからである。止むなく、採用試験という時点で、企業側は面接という学校での受験科目になかった欠陥を、カバーしょうとする。もし、中学や高校や大学で、数学や外国語だけでない「人格」が、学科と同じくらいのウェイトで評価されるなら、いじめ、校内暴力、登校拒否、家庭内暴力がなくなるだろう。
いじめでは、いわゆる、できる子、活発な子、リーダー格の子が、かなりの働きをする。法務省の総合研究所の研究では、いじめをする子どもは落ちこぼれ派というより、元気で活発な普通以上の子どもにもあることを明らかにした。つまり、校内暴力などと違って、いじめは、陰に回ってする行動である。陰でどんな悪いことをしていても、成績さえ良ければ、いい学校へ行ける。
このことは、日本の教育の在り方と、日本の社会構造を象徴的に現す行動である。そこを改革することこそ、臨教審の目的でなければならない。それは、一にかかって、良い子の定義を、単に勉強のできる子でなく、人格の豊かな子と改めることにある。
企業の求める人材も、この豊かな人格にあるだろう。面接試験で追及される価値は、この豊かな人材の側面である。求められる人材と、供給する側の理念は合致している。それなのに、なぜ、供給側の教育機関が、この豊かな人材の育成をすることができなかったのか。
企業側の期待に応えることができなかったのは、大規模校だったからか、四十五人学級だったからか、先生の素質が悪かったからか、それとも、親のしつけが不十分だったからだろうか、これら、いわれるようなことが十分でなかったことも、間違いない。だから、臨教審でも、教員の資質を向上させ、四十人学級どころか、三十五人学級を打ち出そうとさえしている。しかし、この改革で、青少年問題がなくなってしまうことはあるまい。いじめ、校内暴力、登校拒否などは、先生の資質が向上し、四十人学級になったからといって、なくなることではないだろう。もうひとつ深い次元に、問題があるからである。それには、豊かな人格が、企業に評価されるように、大学入試にも、高校入試にも、評価される仕組みが作られねばならぬ。
いじめを、身をもって止めさせたとする。学校生活では価値ある行動である。それは同時に、実社会の生活、組織の中での生活でも、価値ある行動である。この行動を評価する仕組みを作らねばならない。現実には、このような行動は、なんの利益にならないばかりか、かえって、自分がいじめられる恐れがあって、だれも「止め男」にならない。どんなに学業成績が優秀でも、いじめの煽動者は、人格的に問題児として、マイナス点が付けられねばならない。同時に、いじめの止め男は、入学試験で一定の評価を受けるシステムを作るべきである。そうなれば、教室の空気が、ガラリと変わることが期待できる。
人格評価
人格を評価することは、不可能にちかいと批難される。たしかに困難であることは間違いない。また、人格の評価には、人の主観が入り込み「えこひ
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