教育福島0110号(1986年(S61)04月)-020page

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殺した子ども十名のうち、七名までが母親が家出をしたとか、欠損状態にあり、家庭に問題があることがわかった。

家庭内暴力、登校拒否などの問題も、合わせて考えられるようになり、そこに大きな原因として、受験によるプレッシャーが浮かび上ってきた。家庭内暴力では、親の学業に対する期待が、大きいプレッシャーとなっている。校内暴力の子どもは、ほとんどがいわゆる落ちこぼれの、ついていけない者である。

いじめも諸外国との比較研究で、日本の特殊な問題とわかった。ある意味では、日本以上に激しい受験競争が存在する中国の中学では、いじめはほとんどない。新中国、新しい社会建設という目標に向かう子どもたちに、受験勉強は強いプレッシャーを与えていない。むしろ、互いに励まし合って、いじめる、という雰囲気がまったくといっていいほど、ないこともわかった。

アメリカでも、日本のような陰湿ないじめはない。あるのは喧嘩だけで、強い者が弱い者を、抵抗しないからといって「なぶり」遊ぶような現象はない。ここでは、受験というプレッシャーがないのである。

どうやら、多くの研究は、今日の教育荒廃は、受験競争と密接な関係があることを明らかにしてきた。教育荒廃が、主として中学生に起きているのもわかった。進路が分かれるのが、中学二年生くらいである。この時点で、女の子で大学を目ざす者と、そうでない者とで、はっきり分かれる。男の子のレベルより、女子のレベルが低くなっていくのも、この時分からのことである。

こうした状況が明らかになって、教育改革や青少年問題は、根源的な次元で考えなければならないことがわかってきた。臨教審でも、事は容易ではなく、じっくり腰を据えた本格的な取り組みが望まれるというべきだろう。

 

臨教審の取り組み

 

教育荒廃が、いわゆる、いじめ、校内暴力、登校拒否、家庭内暴力などの青少年問題という形で表面化したが、その原因は、わが国の教育制度や社会構造にかかわる根源的問題であることから、臨教審では、はっきりとしたひとつの態度と方針を持つに至った。

教育改革の当面の目標として、いじめ、校内暴力、登校拒否、家庭内暴力など、それ自体を改革のターゲットとしないことである。それは、ある原因の結果にしか過ぎない。教育改革は、荒廃の原因に向けられるべきであって、現象自体に蓋をするようなことであってはならない、ということである。

教育荒廃は、明らかに、過熱した受験競争から起こっている。その意味では、教師の素質が根本的原因でもなく、家庭のしつけも根本的な問題ではない。マンモス校も、教育荒廃の原因ではなくて、単なる引き金でしかない。ここのところが、本当は最も問題とされるべきである。あるいは、そこを問題にすべきであった。残念ながら、臨教審の審議は、いじめ、校内暴力、といった現象に眼を奪われなかったものの、原因の二次的側面に捉われ過ぎた感がある。

例えば、先生たちが日も夜も忘れて、進学者には受験指導、就職者にはなぐさめの言葉や激励をしたとして、教育荒廃の芽がつみ取れたといえるか。どう考えても、そうではあるまい。教師の素質を良くするというのは、体の中のガン細胞に、膏薬を貼る類いだろう。無意味とはいわないものの、決定的な処方筆ではない。

四十五人学級も、問題とされている。いわゆる校内暴力は、大規模校で起きた。管理が行き届かなかったから、という反省もしきりである。先生の眼が行き届かなかったから校内暴力が起きたのであって、先生が隅々まで眼を光らせていれば、校内暴力が起きなかった、という考えもある。

臨教審の考え方も、この線にちかい。管理の仕方がまずかったから校内暴力が起きた、ということになる。今、大問題になっている「いじめ」も、先生の眼が行き届かないから行われている、ということになる。

いじめや校内暴力は、先生の眼が行き届かないから起きたものか。そういう疑問を、もう少し問うてみるべきだったろう。例えば、アメリカや中国でいじめがないのは、先生の管理が行き届いているからか。決して、そうではない。特にアメリカでは、とても生徒の行動に監視が行き渡ってはいない。アメリカの教育問題を特集したテレビ番組で、一人のアメリカの中学の先生が、五時間の授業時間で正味の勉強時間は、わずか二十五分だった、といっていた。残りの時間は全部、「静かにしなさい」「大声を出さないで」「ジョージ、どうして教科書を投げ棄てるの」「メアリー、ジェーンと喧嘩するのは止めなさい」などなど、注意と叱責に明け暮れると語った。

とても、管理と秩序が行き渡っていない。それでも、陰湿ないじめはない。つまり、いじめは先生の管理能力の問題ではなくて、根源の問題があってのことである。その根源の問題に取り組むべき責任が、臨教審にあった。

教師の熱意をどう引き出すか。そこに、臨教審は最大の改革目標を据えている。教師が熱心に教える、愛情をもって生徒に接することは、決して悪いことではない。しかし今のような受験競争が続けば、ついて行けない子が必ず出るだろう。どんなに熱心に教えたって、どうしてもわからない子どもが出る。この子どもたちはどうしても、授業がおもしろいはずがない。じっとわからない授業を受けているのは、苦

 

 

 


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