教育福島0110号(1986年(S61)04月)-023page
随想ずいそう
人がらよき師
鈴木亀郎
年度始めの入学式で、学級担任の発表をすると、児童の後ろに設けた父兄席に、ひそやかなざわめきが起こることがある。校長としては、いささか気になる一瞬である。このささやきから、「うちの子は○○先生の受け持ちでなくてよかった」というような声だけはなくしたいのが私の念願である。
本校は、明治六年の創立で多くの卒業生を社会に送り出している。その中に大正十二年卒業で高野さんという方がいる。本校近くの炭鉱住宅街で育ち父親は常磐炭鉱の鉱夫として働いていた。高野さんが尋常高等小学校の一年から二年へ進級する時のことである。当時家族は弟妹が五人、母親は選炭婦だった。貧しいながらも教育に熱心であった父が病気になり、学校を続けるのが困難になる。
進級させるよう、父親を説得してくれたのは当時担任の薗部先生だった。あと一年で卒業であり、学業成績もよく、ぜひ学ばせてやってほしい、と先生は火の気のない土間で涙を流しながら父親に話をしてくれた。しかし、家庭の状況から無理であった。進級がかなわぬとわかった先生は当時の高野少年を呼んでこういった。
「貧しさに屈するな。今の自分に勝て。強く正しく生きよ」
「私はこの言葉を胸に刻みつけ、歯をくいしばって生きてきました」と高野さんは語気を強めていう。
その後の高野さんは、炭鉱事務所で給仕などを続けながら独学し、小学校教員検定試験に合格、上京し警視庁巡査になる。かたわら夜学に通い、中国から復員後苦労し現在は東京でビル経営者として活躍している。
この間、高野さんは先生の消息を何度か求めたが姓の変更などで果たせなかったという。「校内暴力」など最近の教育環境を見るにつけ、師の恩を忘れてはいけないと必死に捜し、昨年市内勿来の先生宅を見つけることができた。
今は亡き先生のお墓のそばに家族の許しを得て顕彰碑をみかげ石で建てた。もちろん、「貧しさに……」の言葉が刻まれている。
高野さんは、また、「自分がいまこうしてあるのは、少年時代を過した母校のおかげ」と七年前から毎年数百冊の児童図書、管楽器を寄贈し続けている。また、貧しさに耐え勉学に励む児童五名に奨学金を贈り励ましている。
人がらよき教師となる根本は、児童愛に基づく教育の情熱と常に進歩しようとする求道心を持つことにあると思う。目の前にいる子どもたちに情熱を燃やす教師でありたい。親が望む教師像も子どもを愛し、しかも甘やかすことなく熱心に導いてくれる先生にある。将来にわたり心に生きる励ましの言葉、やる気を起こさせる教師のあり方を大事にしたい。
〜高野さんの歌より〜
貧しさに耐えて生きよと訓えたる師の声いまも甦り来る
(いわき市立内町小学校長)
五里霧中
鈴木一高
「やった。やったあ」
私にとって忘れられないのは、三月十九日の県立高校合格発表の日である。
なにもわからず、元気だけが取り得の私が三年前、今年卒業した学年を任された時、本当にこの生徒たちを立派に卒業させられるのか不安でいっぱいだった。でもがんばってやるしかないという責任感を強く持ったことは今も鮮明に記憶している。七十六名の生徒を相手に一年のころは、若さだけを前面に打ち出してがむしゃらに突っ走ったという感じであり、二年の頃には、模範とすべき先輩の先生の助言をもとに、自分は今なにをすべきかを知ることができた。そして三年、一番難しく大変な時期に差しかかり、当惑したことを覚えている。
我が校が、県教育委員会指定生徒指