教育福島0110号(1986年(S61)04月)-029page

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桶売の里

 

橋谷田光雄

 

桶売、この地名の由来は定かではないが、次のような話がある。

 

桶売、この地名の由来は定かではないが、次のような話がある。

「光仁天皇の御代、宝亀年間に東夷平定のため藤原継縄は征東大使としてこの地に来た。この時、藤原継縄卿の恋人、桶瓜(売)姫は、はるばる京都から後を慕ってこの地まで尋ねて来た。しかし、卿はすでに北国遠くへと進んでしまったあとであった。これを知った姫は、跡を追う気力も失せ最早これまでと、この地に没した」この桶瓜(売)姫の名をとって地名としたという。

 

この地には、雨降松、沢尻の大檜、熊倉神社、安養寺など史跡、名所がある。最近は、「いこいの里、川前鬼ケ城」と呼ばれる総合自然レクリエーション施設がつくられ、野外活動や休養の場として多くの人々に利用されている。この施設の周辺には矢大臣山、和田山、鬼ケ城山、神楽山がそびえ立ち、登山や遊歩コースとしては最適で利用者も増えてきている。

この地は冬の訪れが早く、寒さも厳しく期間も他地域より少し長い。紅葉の長いアーケードを通り過ぎたと思ったら、その先は白い雪といった感じである。春は、雪を突き破るようにして芽を出し開花する福寿草を見て知り、梅と桜が同じ頃に咲いて春の盛りを感じさせる。夏は、涼しく過ごしやすく避暑地気分を味わうことができる。秋は、全山燃えるように紅葉し、標高差を感じさせながらやってくる。

 

またこの地は、いわき市平より約三十六キロ、磐越東線川前駅より北方約八キロ、夏井駅より北東約八キロの阿武隈山地の内ふところにいだかれ、双葉郡川内村、田村郡小野町に隣接し標高約五百メートルの地にある静かな里である。明治初期磐前郡楢葉郡川前村、明治三十年頃石城郡に編入、昭和四十一年いわき市となり現在に至っている。その間川前村の中心地として、政治的、産業的にも中核地として変遷してきた。

山間、交通不便など悪い条件にありながらも明治学制発布後いちはやく小学校を開設したことは、当時の関係者の方々の心の中には、郷土開発のため教育に対する大きな期待があったと考えられる。高冷地のため、特筆する産業はないが、農林業を主に、牧畜、葉タバコ栽培、野菜栽培などに従事する農家が多く、最近は、隠元豆栽培に力を入れ多額の収益を上げている。農業後継者会が結成されており、地域農業発展のため積極的に研究し、すばらしい実績をあげている。繊維工場や毛皮工場があり、会社勤めをする家庭もある。社会的変化、農業の機械化等もすすみ忙しい時期であっても生徒の労力をほとんど必要としない地域にもなってきている。しかし生徒は、進んで仕事をする。昭和五十七、五十八年度は、県教委指定による「勤労体験的学習」の研究を行い成果を十分にあげ現在も研究精神は引き継がれている。毎年、土地の古老から桶売の歴史などを学び桶売について認識を新しくしている。

(いわき市立江名中学校教頭)

 

「おおめしくいたろう先生」の話

 

根本文弘

 

た教え子から、先日便りが届いた。その中に次のようなことが書いてあった。

 

母親になった教え子から、先日便りが届いた。その中に次のようなことが書いてあった。

(先生が昔、私たちに聞かせてくださった「おおめしくいたろう先生」のお話がとても印象に残っています。あんな楽しいお話を自分の子どもに

も聞かせたいと思います。いつか絵本にもあらわしたいなと言っておられたので、もし本になったものがありましたら、ぜひ送ってください)私は、恥ずかしいような、なつかしいような気持ちで読んだ。だが残念ながらまだ文章にさえなっていない。いつかはこの話をまとめて手づくりの絵本ぐらいは作ってみたいと思っている。

「おおめしくいたろう」とは、漢字で大飯食太郎と書く。私の創作童話の架空の主人公である。すごい大食家でごうけつ。ユーモアがあって子どもずき。スマートでお人よしの奥さんと山奥の分校に住んでいて、子どもたちと楽しい交流の物語が展開する。

きれいな谷川で魚をとったり、泳いだりする場面、夏休みにお寺の境内できもだめしをする場面、こうもりや蛇のすむ洞くつに探検に出かける場面などは特に子どもたちに人気があった。

現在の学校でも、補欠の授業の時など、時間に余裕があると、このシリーズを子どもたちに話して聞かせることがある。かれこれ二十年も続けていると、発達段階に即して、また、子ども

 

 

 


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