教育福島0111号(1986年(S61)06月)-027page
幸わせとは
船田英夫
曽祖父が亡くなった時、私は六歳であった。ふとんに入ったままで五、六人の大人が二階から曽祖父を運んだ。最初に経験した身内の死であった。そして半年後の夏の暑い日には、染物をしながら曽祖母が倒れた。まず私が発見した。隣の家の人が、首に大根おろしをのせて冷やすといいと言った。今から考えると、六歳の私に二人の死は特別な意味を持たなかった。
伊勢湾台風で母親の実家の裏山が崩れ、家屋の半分が土砂に埋まった。妹と同じ年の娘、母親とその孫が死んだ。列車不通で私は葬儀にも行けなかった。母が様子を話してくれた。どうしょうもなく空しい気持になった。高校二年の秋であった。
十九歳の一月に父の弟が亡くなった。ずいぶん私を可愛がってくれた。型にはまらない考え方をする人で、突然の死は、いいようのない悲しみであった。そして、あの時どうして叔父に対してあのような態度をとったのかと後悔した。あれは実は私のためを考えてくれた言葉だったのだ、と過ぎた日のことが新しく思い出された。
初めて死のことを考えた。性格がくるりと変ったようだった。大学二年の時に祖母が、二番目の学校に勤めてから祖父が亡くなった。もっといろんなことをして喜こばせてやりたかった。優しくしてやればよかった、と残念でならなかった。その後何人かの人の死に出会った。その後に、ああしておけばよかった、こうしておけばよかったと思ってしまう。ただの一度も反省せずに済むことはなかった。人が亡くなってはじめて知る。この人が死ななければ考えが及ばなかったのか、と思い空しくなった。
八年前母の兄が亡くなった。人の生き方を教えてくれたもっとも尊敬する人であった。それでもやはり私は同じことを繰り返した。さすがに自分が嫌になった。何度繰り返せば気がすむのか、と情なくなった。
目の前のこの人のために何ができるのかということを考えるようになったのはこの頃からである。妻と娘と孫を災害で失った伯父は、厳しく辛抱強く情深く、弱い者に心を寄せた。伯父は私に何を望むだろうか。伯父だったらどうするだろうか。伯父を真似することができるだろうか。
幸福であるということには、物はわき役にすぎない。周りの人々が、大切な人々が、苦しまずにいる、悲しまずにいるということが結局は私たちを幸せにする。自分以外の人に尽くすことがやがて自分に返ってくる。後悔のほとんどないところに幸福はもたらされる。四十年かかってこんな考えに辿りついた。亡くなった人々が教えてくれた。過去の体験を振り返ればこれからのことも分ってくるに違いない。
今はどんなことをしたらいいのか。混乱の多い世の中で、心までも形で測ろうとする世間にあって、不安を募らせている若者たちに、何を話してやったらいいのか。将来は、決して暗くなく、努力を重ねて願う者には必ず光が見えてくることを話してやろう。目先にのみこだわり、形あるものに大きな価値を置くことの空しさを知らせてやろう。他人の心の痛みを知り、人をけなす前に自分を反省することの大切さを教えてやろう。不幸な人が周りにいる時、私たちは幸せになれないことを学ばせてやりたいと思うのである。
(県立会津高等学校教諭)
出会い
堀川紘征
教職生活二十年を過ごし、二十一年目への新たな出発に際し、これまでのさまざまな出会いを振り返ってみたいと考えました。
新任教員として、期待と不安をいだいて赴任したY中で、私を待ち受けていたものは、「新任教員で三年の組主任は無理だと思います」と、私の目の前で学年主任が校長先生に具申する言葉でした。
校長先生は、しばらく考えられた後「いや、大学を出た者ができないはずはない」と申され、その一言で私の三年組担任が決まるとともに、私に「やりたいと思ったことをしっかりやってくれ。何かあったら私が引き受ける」と励ましてくださったのです。
あの時の校長先生の言葉を、私は今でも鮮明に覚えています。
九組編制三百九十名の三学年を、十