教育福島0111号(1986年(S61)06月)-028page
三名の教師が担当し、今のようないじめこそありませんでしたが、多くの生徒指導の問題に頭を悩まされ、私なりに苦労しました。若くて、つたない私を支え、ともかくも担当した学年を無事に卒業までこぎつけることができたのは、学年主任を中心とする同学年の先生方のご指導と学年としての見事な結束力の賜でした。教師が互いに支え合い、結束して事に当たるとき、そこに素晴しい成果が上がるということを私はこの時、しっかりと胸にきざみ、今日の私の教育観の礎となっていると言えます。
次の赴任地K中は、山間へき地にありましたが、職員数二十三名中十二名が独身者で、独身者でつくる「青かぶ会」に私も入り、教育熱心な村の人々の温かい支えのもと、下宿や間借りの一部屋で夜おそくまで、教材研究や教育問題に取り組み議論したものでした。
K中での私たちの目標の一つに、進学率の向上と、何としてでも中体連の郡大会で優勝できるような強いチームをつくり上げ、生徒に自信と誇りを持たせたいということがありました。
「高校なんかにやるよりも、ゼニを取らせたほうがいい」という親の考えを変えてもらうために、何度も家庭訪問を重ね、時間をかけて説得に力を尽したものです。
一方、部活では教師と生徒が一丸となって暗くなるまで練習に励み、生徒にねばりと技術を身につけさせ、やがて郡大会で優勝する部も出てくるようになったのは、今思うと私たちの若さと情熱と連帯感のなせるわざであったといえましょう。
その後、市部のF中に赴任しましたが、ここで出会った先生方は、どの方も研究熱心で、その熱気には圧倒される思いで、どれほど勉強になったか計りしれません。
前記三校を通した八年間に、多くの優れた先生方に出会い、教えを受け、体験したことがその後の私の教育の指針となり、徴力ながら自信をもって指導に当たる私の支えになっております。
(広野町立広野中学校教諭)
にんじん
佐藤隆子
初めて「先生」と呼ばれるようになり、幼い子どもたちを相手に張り切っていたころのことです。
給食センターから届く補食給食には毎日のように、人参が入っていました。
いつもは、子どもたちに内緒で食べ残していたのですが、うっかりしていてA児に見つかってしまったのです。
「先生、人参残したべ、みんなさ言うど」と言われて、とても困ったことを今でも覚えています。子どもたちの前で、先生らしくふるまおうと、精いっぱい背のびしていた私の初めての大失敗でした。
しかし、この人参のおかげで、A児との間に、急に親しみが増し、それがきっかけとなって、子どもたちに仲間として受け入れてもらえるようになったのです。
それ以来、人参が子どもたちに、どんな役割を果たしてくれるのかを楽しみに、チャンスを待ちながら保育をするようになりました。
お弁当の時に、嫌いなおかずが出て食べられずにいる子どもに、
「先生も人参が嫌いなんだよ」と話しかけてあげます。すると、まわりの子どもたちは、初めは信じられないという顔をします。先生に嫌いな食べ物や、できないことがあるなんで聞いたことがないと言うのです。
それからは、人参が出るたびに、
「先生は人参嫌いなんだよな」
「残すのかな」と子どもたちに見つめられ、私は残すことができず、苦労して飲みこむことにしました。ほんとうに大嫌いなのですから、食べる私も大変です。それでも、あまり大きいものや生の人参は、どうしても食べられません。すると、子どもたちは、
「なんでも食べねっかだめなんだよ」
「嫌いなんだから残したっていいべした」
「先生かわいそうだべ、みんなだって嫌いなのは食べねべした」
「ほんじゃ、生は残してもいいっこにすっぺ」などと言ってくれたりします。
また、食べ残している友だちに、
「先生だって嫌いな人参食べてんだから、がまんして食べろな」などと励ます姿も見られるようになってきました。
もちろん、私も子どもたちの監視と励ましを受けながら、 「これを一口食べたら一日分、子どもたちにやさしさや、がんばる気持ちが育ってくれるといいなあ」などと、虫のいいことを考えながら、嫌いな人参を飲みこんでいるのです。
人参は、こんなふうに子どもたちに思いやりやがんばりの心を育ててくれています。
人参、バンザイ!
(鹿島町立真野幼稚園教諭)