教育福島0112号(1986年(S61)07月)-028page

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りませんが、生徒指導の上からはとても勉強になります。

また、部活動やクラブ活動、清掃活動、学校行事、休み時間等でも、できるだけ生徒とふれ合うように努力しています。特に、部活動や休み時間でのちょっとした一言が、生徒の心を開き授業の中では見せてくれなかったいろいろな面を見せてくれます。そんな時つくづく生徒指導のむづかしさを感じる今日この頃です。

教科の授業の中では、積極的に発言し、他の生徒をリードしてくれる生徒が勤労生産的行事では、全く何もしないで見ていることがあったり、まじめに授業を受けられない生徒が、清掃の時間は誰よりもまじめに一生懸命やるなど、授業の時とはまったく違った姿を見せてくれる場合もあり、一年生教師の私にとって、戸惑うことばかりです。

今はまだ、そうした生徒の様子にふれながら、ただ驚いたり、感心したりしているばかりで、生徒のよき相談相手になったり、適切な個別指導というところまでは手が及びませんが、大学時代スポーツを通して培った根性と貴重な体験を教育実践の場に生かしていこうと努めています。幸い、大学時代にソフトボール部に所属しており、部活動の指導や町内のソフトボールチームのメンバーの一人として活動できる場と機会にも恵まれ、地域の人々との交流を通して、地域の様子や特色と地域住民が学校に寄せる期待と関心といったものも学びとることができます。

こうした経験を一つ一つ積み上げながら、それらを生徒指導や学習指導の上に生かしていこうと考えています。そうして、一日も早く生徒や地域の人々から親しまれ、信頼される教師になろうと頑張っています。 (西会津町立西会津中学校教諭)

 

部活動の思い出

山崎憲一

 

する一方、生徒たちにはずいぶん迷惑をかけたであろうという思いも強い。

 

人生も半世紀近くなると、誰しも一度や二度の思い出に残る出会いがあるはずである。私の場合は人間との出会いではなく、部顧問になったことが、私の後の人生に大きな出会いをもたらしたことになる。全くの素人であった私が、初任校で軟式庭球部顧問になり一昨年、顧問を辞めるまで二十三年間も続いてしまったのである。よくも永い間続いたものだと我ながら感心する一方、生徒たちにはずいぶん迷惑をかけたであろうという思いも強い。

非力な指導者であったにも拘わらず、部員たちの熱心な練習のお陰でなん度もインター・ハイに参加する機会を持つことができたのは幸せであった。どの大会にもそれなりの思い出はあるのだが、昭和五十三年の「いわき大会」と昭和五十七年の「鹿児島大会」は特に印象に残っている。どちらの大会も大会そのものよりも、全国大会に至る過程が印象深いのである。いわき大会は地元開催ということもあり、大会前の一年間は地元高校の顧問ば全員実に多忙を極めた。私も事務局の仕事があり、学校で授業を終えた後、いわき市役所で大会関係の仕事をしていたので、生徒の練習指導に出向く時間はほとんどなかった。そんな状態でありながら、地区予選をぎりぎりで通過した選手が、インター・ハイ出場権を得てしまったのだから非常に嬉しかった。この大会でもうひとつ記憶に残っていることがある。地元開催の全国大会に裏方の一員として参加してみて、全国大会のような規模の大きな大会は、地元の熱心な多数の善意と、関係当局のバックアップがあってはじめて、開催が可能であることを実感として知ったことである。

昭和五十七年の鹿児島大会は顧問になって初めて、県大会を勝つつもりで試合にのぞみ、結果的には奇跡的に勝ててしまったという意味で印象が深い。この年は部員総数が九名で、団体戦に八名エントリーすると残りが一名という、地区でも最少数の部であった。勝てたのは奇跡みたいなものだったが、全員よく練習をして、チームワークが抜群であったのが勝因だったのであろう。凡庸の力量の持ち主でも、真剣に一事に取り組めば、良い結果を出せるものだということを、この年の部員たちに教えられた思いがする。

二十三年間、生徒に恵まれてなん度か全国大会に参加することができた。すべて生徒たちのお陰である。沖縄、北海道を除いて青森から鹿児島まで、ずいぶんあちこちと旅行させてもらったことになる。部活動で得た人間関係は勤務校がかわってもあいかわらず続いている。初任校の部員とは、今ではもう同世代人として、世間話がお互いの共通話題になるほど、年令が近くなってしまった。二十三年はやはり長い歳月であったことが、しみじみと感じられる。 (県立磐城高等学校教諭)

 

 

 

 

 


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