教育福島0113号(1986年(S61)08月)-027page
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つらそうにゆがんでいた顔には、走り切ろうとする必死の決意がみなぎるようになりました。胸の奥からうれしいものがこみ上げ、「頑張れ」と励ます私の声にも、それを受けとめる彼の表情にも、何か晴れやかなものが感じられ、私まで足どりが弾みました。順位こそあまり変わりませんが、彼のマラソンに対する姿勢が確かに変わってきたのです。「今度は十九位になりたい」「一人ぬかした。うれしかった」と日記に書き、「マラソンがだれよりもはやくなりたい」と七夕に願いをこめるなど、学習のあちこちに意欲がみなぎるようになってきたのです。どんな方法も見つからないまま、ただひたすら一緒に走り続けただけの私に、こんなにも前向きで、こんなにもけなげな、何にも勝るプレゼントをしてくれました。
新採用から三か月、学習指導も生徒指導も不安の一言でつきる毎日でしたが、このマラソンを通じ、子どもの立場で、子どもとともに活動していく中から、いっか道は開かれることを実感しました。
わからないとしりごみしないで、先輩の先生方にアドバイスをお願いしながら、子どもたちとともに、一歩一歩前進して行きたいと思います。
(下郷町立旭田小学校中妻分校教諭)
「蘭」の思い出
岩城教夫
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十五年ほど前、県外人事計画交流で鹿児島県に派遣されていたときのことである。
教育長さんに御挨拶を申し上げた折、蘭を一鉢いただいた。当時は鉢物に興味も関心もなく、どちらかといえば、若者の関わるようなものではないと思っていた。
いただいてきたままにしておいた蘭は、何日か過ぎるうちに、なんとなく全体の色合いが薄くなり、葉の先の方が黄ばんできた。枯らしてしまっては申し訳ないと思いながら、少々持て余し気味に扱っていた。何とかしなければと、泥なわ的に園芸書を求め、蘭の項をくわしく読んでみたが、どうも微妙な点が分からない。
思い余って盆栽好きな近所のおじさんに教えを迄うた。蘭を一見してから引き抜いて根を見せてくれた。根の先端は黒く傷み根腐れを起こしていた。水苔が根の周りに巻いてあり、水のかけ過ぎと肥料の与え過ぎとのことであった。
何十年も蘭を扱っていると、葉の色を見ただけで、水、肥料、日光、風、温度等々、今何を欲しているかが分かるという。軽石を使って植え直していただき、焼酎を酌み交わしながら蘭学を事始めたのである。
教育長さんは、何のコメントもなく私にくださったのだが、今になって思うと教育の基本を蘭の一鉢に託して諭されたのではないかと思われる。
ところで、前任地での朝のこと、ひやりとする冷たさに目を覚ました。温度計は零下十度を指し、離れがたい布団から思い切って起き出して間もなく、校庭から子どもの声がする。園児や一、二年生が肩をすぼめ、足ふみながら昇降口が開くのを待っている。
その中に一人の女の子がいた。普段はほとんど口もきかず、担任もほとほと困り果てていた。ストーブを囲んで談笑しているときに、「寒かったろう」と頭に手をやり顔を見たら、こくん、とうなずいてにこっとした。廊下で出会うとまたにこつとした。何かと声をかけているうちに、小さな声で「おはよう」というようになった。そして、転任の時、その子は黙って花束を差し出してくれたのである。
日頃の教育活動の中で、児童の心の信号を読みとることのむづかしさをつくづく感じた。
葉の色が黄ばんできた時、蘭なら鉢から引き抜いて根を見ることもできる。しかし、人間にはそれができない。
子どもの目、顔、手、足、声、持ち物等、子どもの身体から発する何かが、心の喜びや悩みを訴えている。私たちは、その信号を感じ取るセンサーを磨いておかなければならない。
厳寒に耐えられず、ほとんど枯れてしまった南国育ちの鉢木の中で、その蘭の一鉢だけが生命を保ち、堪え忍んで逆境に耐えている。
何かにつけ、しみじみと今は亡きその時の教育長さんのお顔を思い出す昨今である。
(県教育センター教育相談係長)
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花の王「蘭」
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