教育福島0114号(1986年(S61)09月)-025page

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溝口洋子

溝口洋子

 

鳥獣保護員を県知事より委嘱されて三年が経過しました。

それ以来、以前にも増して動物との関わり合う機会がふえ、多くの方々から、「やはり、子どもの頃から動物がお好きだったんでしょうね」と聞かれることが多くなりました。最初のうちは「勿論、大好きでした」と単純に答えていましたが、そのうちこの質問は、私個人に対してなのか、それとも鳥獣保護員に対してなのかと、ふと考え込んでしまうことが多くなりました。

現在、福島県には九十二名の鳥獣保護員が委嘱されておりますが、そのうち八十八名は大日本猟友会にも所属しています。要するにこの人たちはハンターでもあるのです。では、この方々たちは、先ほどの質問に何と答えるのでしょうか。

一般の方が考える「鳥獣保護」ということばからくる保護員のイメージは、三度の飯より動物が好きで、動物の生命を守るためには身体を張ることも辞さない、あるいは、自分の食べる分を減らしても動物に食べさせたいというほど優しい……などになろうと思います。しかし、こと鳥獣保護員に関しては、レッテルと中味は大違いのようです。ハンターでもある保護員の方にとっては、多くは「保護」とは狩猟の楽しみのために行うもののようでもあります。それ故、そのような保護員の方々については、その名称の前辞として「為狩猟」ということばをつければ、だいぶハッキリしてくるのではないかと思います。

ところで福島県には、「鳥獣保護センター」という、傷ついたり病気になったりした野生動物の保護・治療機関があります。このセンターにしても、某県のように狩猟鳥であるキジ、ヤマドリの生産が専らの業務で、保護・治療はほとんどやっていないという所もあります。これも強いて名付けるなら「為狩猟」鳥獣保護センターとしてもよさそうに思えます。これからみれば本県の鳥獣保護センターはだいぶ進歩的であるといえます。

ことばというものは、甚だ恐しいものだと思います。鳥獣保護ということばを聞いただけで、聞き手が勝手に解釈してしまう面があります。この際、鳥獣保護員ということばを使うことをやめてみたらとも思います。それに行政が国民に誤解を与えるような用語の使用を続けるわけにもいかないのではないかと思います。どうしてもこのことばを使わなければならないのなら、そのことばの使用目的を明確にする必要があると思います。あえていうならば、地球の子どもたちである野生動物を真に保護することを目的とする"地球の為の鳥獣保護員"ということばと、野生動物の狩猟の楽しみを目的とする"狩猟の為の鳥獣保護員"ということはの使い分けの必要があるということです。

いろいろ申し述べてきましたが、この話に出てまいりました大日本猟友会やハンターの方に悪意があって申し上げたものではないことをお断わりしておきたいと思います。我が国では、現在、狩猟は合法的に認められており、この法律が存続する限り、ゲームやスポーツとしての狩猟をやめて下さいといってもなかなか無理であると思います。ただ私が考えていることは、鳥獣保護員の仕事の中に、鳥獣保護思想の啓蒙ということがあり、その保護に携わっている人間が、今年の冬はノウサギとキジをこれだけ撃ったといって自慢したり、立派なヤマドリの剥製を作ったおじさんが、子どもたちの前で、野生動物を大切にしなさいとか、生命の尊厳を説いたところで、どれだけの説得力をもつかということなのです。

私自身、自然の中で、人間によって傷つけられたカモシカ、ハクビシン等、数多くの動物のリハビリテーションを手掛けた中で、これまで申し上げたような事を痛切に感じているのです。

(日本でただ一人の女性鳥獣保護員・本県二本松市在住)

 

親熊をなくした子熊を育てる溝口さん

親熊をなくした子熊を育てる溝口さん

 

初秋雑感

和田 隆

 

ると、ちらほらと教え子からの結婚披露宴への招待状が舞い込む季節となる。

 

夏休みが終り、秋口にさしかかると、ちらほらと教え子からの結婚披露宴への招待状が舞い込む季節となる。

今度のは誰だろう。相手の人はどう

 

 

 


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