教育福島0114号(1986年(S61)09月)-027page

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会性などを身につけさせていこうと実践を重ねているところです。

大勢の子どもたちを連れて園外に出ることは不安も大きいのですが、自然の中で目を輝かせ遊びを見つけてそれに没頭する子どもの顔を想像すると、保育室の中で過ごすことより、どれだけ子どもに活力を与えるか計り知れない園外での活動をもっともっと園生活に取り入れ、遊びの楽しさを一人でも多くの子に味わわせるようにしなくてはと思うこのごろです。

(白河市立大沼幼稚園教諭)

 

恥ずかしがり屋

平野哲哉

 

日本人は、外国人と比べて恥ずかしがり屋が多いと言われてきた。

 

日本人は、外国人と比べて恥ずかしがり屋が多いと言われてきた。

恥ずかしがり屋には、良い、悪いの両面で特徴があるように思う。その長所を育て、短所を克服していくことが、人格形成の上でも大事であろう。

まず、恥ずかしがり屋は、周囲の日を気にして何ことにも消極的な言動身とるようになる。

満員の電車やバスの中で席を譲ること、よく出会う人にあいさつをすること、見知らぬ人に話しかけることなども恥ずかしさが先に立ってできなくなる。また、スポーツの国際大会では十分力を発揮できない。会議などで自分の考えを主張しないまま終わってしまうこともある。

私たちは、このような恥ずかしさを克服していかなければならない。正しいことで、どうしてもそれを成し遂げなければならないとき、恥ずかしさなどは、かなぐり捨てて積極的に行動すべきであろう。

先日、ある新聞のコラム欄に、ヘドロやゴミに埋まって死滅しつつある干潟をよみがえらせつつある森田三郎さんのことが載っていた。『森田流の運動は単純明快だった。どろどろの汚泥に身を投じ、黙々とゴミを拾うことだ、……最初は気恥ずかしかった、恥ずかしいと思う自分がくやしかった、と森田さんはいう。……』恥ずかしさをのり越え、十数年たった今では、ハマシギやウミネコが舞い、トビハゼやボラが泳ぎ、アマモに魚が産卵するようになったという。

尾瀬を訪れた人たちは、出会う人ごとに必ず明るい笑顔で、元気のよい声で「こんにちは」と、あいさつをかわす。そして、「もう少しですよ、がんばってください」と、まるで以前からの知り合いのように親しく話しかける。そこには、恥ずかしさを越えて自然につつまれたという親近感や喜び、満足感があるように思われる。

つぎに、恥ずかしがり屋には、人間の悪への進行にブレーキをかけてくれる役目もある。

恥ずかしがり屋は、食べ歩きをしない。約束をやぶったり、うそやごまかしをすることもない。図書館で大声を出してさわぐこともない。車窓から吸いがらや空き缶などを投げ捨てることもない。他人をだましたり、物を盗んだりすることもできない。

更に、恥ずかしがり屋は、他人への思いやりを育ててくれる役目もある。恥ずかしがり屋は、相手の気持ちを先に考える。相手が喜んでくれるなら自分は少しぐらい損をしても満足する。困っている人がいたら、温かく見守ってやり、状況によってはさりげなく手助けをしてくれる。

現代の若者や子どもたちには、恥ずかしがり屋が少なくなってきたように思われる。より自主的・積極的な人間が増えるのはうれしい限りである。しかし、『赤信号、みんなで渡れば怖くない』では困る。やはり、日本人は、適度の恥ずかしがり屋さんが良い。

(川俣町立川俣南小学校教諭)

 

緘黙児に学ぶ

唯野一誠

 

心を高めさせた一つの事例がある。それは、学校縅黙児との出会いであった。

 

目の前の児童をどう導き、どのようにして充実した学校生活を送らせたらよいか、もっと適切なアプローチの方法はないか  私に生徒指導への関心を高めさせた一つの事例がある。それは、学校縅黙児との出会いであった。

六年前、担任した児童の中に、話しかけても、ただうなずくだけで、堅く口を閉ざしているM子がいた。教科指導の中で、特に、席順に従がつた音読は、その子を素通りせざるを得ない状態が続いた。さすがに、(なんとかしなくては……)と焦りを感じ、あまり目を通したことのなかった生徒指導に関する書物を読むきっかけにもなった。

その後、家庭訪問、個別指導、移動教育相談等の実施、児童相談所へ入所させるなど、いろいろな治療を試みたが、効果はなかなか現われなかった。

 

 

 


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