教育福島0114号(1986年(S61)09月)-028page
それから一年後、私は、筑波大学で半年間、事例研究を通して、カウンセリングの技術の向上を図ることを目的とした研修の機会に恵まれた。
さっそく、小学一年生の絨黙児担当のメンバーに加えていただいたが、遊戯治療室のマジックミラーを通して見る子どもは、治療者の女子学生と楽しそうに遊び、しかも大声ではしゃぎ回っているのだ。その姿は、全く普通児と変わりがないのである。(本当に、この子が絨黙児なのだろうか)と不思議に思いながらも、その子と面接することとなった。初対面の私に対して、一瞬戸惑いが見られたため、私は「何年生かな」と聞いてみた。すると、その子は、うつむきながらも、はっきりと「一年生」と答えたのだ。なんと、ことばを発して、私を受け入れてくれたではないか。
それからというもの、週に一度、学習訓練を重ねる一方で、母親からは、校外生活等の情報を集めていった。また、学校訪問も実施してみたが、遊戯室で、私たちに見せてくれたあの快活な姿を再び見ることはなかった。全く別人のように思えてならなかった。
その後、さまざまな手法を試みている間に、研修期間が終了し、別の担当者へ継続治療を余儀なくされてしまい、私には心残りなことであった。
学校に戻った私は、研修で学んだ技法を用いて、M子への治療を続けた。担任替えのため、一貫した指導はできなかったものの、受容的で、共感的な接し方が効を奏し、次第に笑顔が多く見られるようになり、ついには、親しい友人と会話を交わすようにまでになった。現在、中学校では、バレーボール部に所属し、レギュラーをめざして頑張っているとのことである。
この二つの事例を通して教えられたことは、学校の集団生活に適応できない児童に対しての、個に応じた指導やカウンセリングマインドの大切さである。心理的、神経症的な問題を抱えた子どもが増加している今日、児童の心の痛みや悩みを素直に受け入れることのできる教師をめざして努力したいと思う。
(相馬市立桜丘小学校教諭)
母校を訪ねて
寺 西 武
去る二月、所用で上京した折、母校を訪ねてみた。
からりと晴れた土曜の朝、下町の駅に降りた。さすがに風は冷たく「これも筑波おろしか」と懐しくもあった。
十五分ほど歩いて、元住んでいた町に着いた。見覚えのある商店、遊んだことのある神社…。懐しさで心も躍る。
四十一年目にしてやっと訪ねて来た幼い頃の町。
昭和二十年三月。小学校卒業を目前にして平へ疎開して来たのだ。その後、訪れる機会はなかった。
元いた家は建て替えられ、隣近所の家々も変わっている。しかし、家並みはそのままである。十三年間暮していたころの思い出が、ふつふっとよみがえってくる。その一画のすぐ北に母校がある。
校舎は鉄筋コンクリート三階建てに変わったが、校庭を中に口の字型のたたずまいは昔のままである。その校舎をとりまくように東側から南側半分まで柵がめぐり、鉄線が張られている。これも昔どおりである。
冷たい風に襟をすくめながら、一歩一歩、柵について巡った。
思い出の枇杷や桑の木もあった。「するりと、潜って入ったのはこの辺」と、目で探った。ふと、目を上げると、そこには、六年の時の教室が、そして音楽室が……。しかし、今はない。
南側中央が正門。そこからは昔のままのコンクリート塀がぐるつと西側まで続いている。そこにつけられた落書きの一つ一つに目を当てたが、さすがに自分のものと思えるものはなかった。巡り巡って東門。幸い開いていたので入ってみた。左手は体育館。新しくなっているが、ここで式が行われたのだ。
式当日の寒かったこと。戦没者の慰霊祭のこと。また、防空本部が置かれ、隣組長だった母に代わって「大川町第十班避難完了」と、警戒警報のたびに走り込んだこと。等々、走馬燈のように思い出される。「そういえば、この辺に給食室があったはず」しかし、今は植え込みになっている。「この辺に池が」…あった。昔のままにあった。小さな池。中で緋鯉が泳いでいる。四十一年目にして昔日の面影をとらえ感無量である。ただ、立っていた。
急に右手の昇降口が騒がしくなり、ランドセルを背負った子どもたちがと、び出して来た。
ピチピチと育った男の子、女の子。その姿には戦時中の子に共通するものは何もない。ただ、「これはみんな後輩なんだ」という感概がこみ上げてきた。
ゆっくりと、子どもらのあとについて学校を離れた。駅に向いながら、「来て良かった」、「来て良かった」と……。
(いわき市立好間第二小学校教頭)